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「わたしはディミトリス・クリスタコス。このホテルの3082号室にいる。少し時間が必要なら、それでも構わない。今夜中にわたしの部屋に出向いて来るならよしとしよう。言っておくが、カジノとは元来そういう所だ。それが嫌なら、こんな場所に深入りせず、地中海クルーズを楽しむだけに留めておくべきだったな」

 父が思いがけず陥ってしまった人生最大の苦境を前にして、アビーはそれを止められなかった自分を激しく責めていた。昔から父は頭に血が上ると、引き際を見失ってしまう癖があった。亡き母が今わの際まで心配していたことだ。そう、確かにこの人のいう通り、こういう場所に来るべきではなかったのだろう。

「わかりました。わたし達もこのホテルに宿泊しています。父が落ち着きましたら、必ずお伺いしますわ」
「君の名前は?」
 ふいに、その男が視線をこちらに向けてきた。
「アビゲイル・コートニーです」
「いいだろう。部屋で待っている。今夜中だ」
 青ざめた顔を毅然と上げ、頷いたアビーにそう言い置くと、彼は男達を引き連れてカジノから出て行った。



「すまん、すまんな、ローラ」
 ポーターの力を借りて、酔いつぶれてしまう寸前に父をホテルの自室まで連れ帰ると、なだめすかせてどうにかベッドに入れた。
 ともすればへたり込みそうになる気持を抑えて、できる限り世話をする。意識が朦朧としているのか、父は娘を亡くなった妻と混同しているようだ。

 アビーは、父の弱さをいつも包み込んで許してきた母のように、父に優しく微笑みかけた。

「一晩休めば、きっと具合はよくなるわ。それにお父さんが行くより、わたしの方が落ち着いて交渉できるわね、きっと。仕事でも慣れてるもの。今はわたしに任せてみて」


 父を休ませた後、アビーは開いたクローゼットの前で考え込んだ。時間だけがどんどん過ぎていく。
 さっき、自分に注がれていたあの男の目を思い出すと、なぜか心臓がはね上がる。乱れる思いを振り払う様に頭を何度も振ると、結局、ビジネスの場にふさわしいパンツスーツで行くことに決めた。
 金髪をさっとブラッシングしてから、もう一度かっちりしたシニヨンに結い直し、ブルーグリーンの瞳によく似合う小粒のエメラルドのイヤリングを止めると、意を決してドアを開いた。

 少し離れた所で待っていたらしいポーターが、近付いて来て丁重に会釈した。
「マドモアゼル、お一人ですか? クリスタコス様からお部屋までご案内するよう言付かっております」
 言われて内心驚く。見張られていた? まさか、逃げ出すとでも思われていたのだろうか……。
 唇を噛んで頷き、黙ってついていくと、自分達とは違う棟に案内された。通されたのは、海に面したスイートルームだった。

 案内してくれたホテルマンの呼びかけで、[3082] のドアロックが開いた。ドアの中に丁重かつ半強制的に押し込まれた後、一人残されたアビーは室内を恐る恐る見回した。
 眺望のよい部屋だった。美しいレースのカーテンの向こうの、開け放たれた窓から続くバルコニーから、湿った潮風が吹き込んでくる。
 ホテルが建つライトアップされた丘の下に、夜空を映した地中海が底知れず見えている。

 部屋には今誰もいなかった。ゴージャスな壁紙と座り心地のよさそうなソファ、そしてテーブルの上に準備されたグラスとワインの瓶を眺めながら、どうしたらいいかと考えていると、背後でかすかな物音がした。
 はっとして振り向くと、ツインルームの続き部屋の開いたドアに寄りかかって、シルクのシャツの前をはだけたディミトリス・クリスタコスが立っていた。黙ってこちらを眺めている。


「いつから見ていたんです? わたしが困っているのに黙っているなんて、あなたも相当、人が悪いですね」
 無遠慮に言ってしまい、しまったと思ったが、相手はふっと口元に笑みを浮かべただけだった。
「これは失礼。マドモアゼル、君一人か?」
「ええ、そうです」
「逃げなかったんだな」
 アビーはむっとして相手を見返し、強気で言い返した。
「そんなことはしません。第一、逃げる余地なんかなさそうでしたわ」
「確かに。そんな間抜けなやり方はしないな。ビジネスの世界では致命的だ」
「ビジネス? あれもあなたのビジネスのひとつなんですか?」
 アビーは言葉に精一杯の皮肉をこめてみせた。
「あなたは大そうな資産家だと……、ヨーロッパからアメリカにまたがる市場を持つワイナリーと、海運事業から得ておられると思っていました」
「ほう、この短時間でそこまで情報収集したわけか。僕に関心をもってくれるとは、光栄だ」
「別に……、おかしな意味で関心があるわけではありません! 交渉相手を前もって調べるのは当たり前でしょう?」
 馬鹿にされているのがわかり、思わずかっとして言い返すと、彼の目が面白そうにきらめいた。
「普通、相手に慈悲を請うべき立場の女なら、そんなことに時間をかけたりしないものだ。それより、もっとするべきことがあったとは思わないか?」

 アビーの着ている機能的なパンツスーツをわざとらしく見下ろし、からかうように言う。アビーはさらにかっとして、一歩前に出ると、ブルーグリーンの瞳をきらめかせながら、辛らつに言い返した。

「あなたがこれまでお付き合いになっていた女性達なら、そうかもしれませんね、ミスター・クリスタコス! 新聞や週刊誌の社交欄を、時折大層にぎわせていらっしゃるようですもの。ですが、女は誰でも同じだとは思わないでください。そんな安っぽい手管をご期待なさっていたのでしたら、おあいにく様でしたわ。ヨーロッパに名の知れたクリスタコス・グループのトップともあろう方の人間性がその程度だなんて、こちらこそがっかりです」

 相手の瞳が怒ったように細められたのがわかった。言い過ぎたかもしれない。はっとして口をつぐんだが、彼はくくっと笑いながら、こちらに近づいてきた。
「これは、見かけによらず気丈なお嬢さんだ。一本取られたな。今回はドローということで、どうだい? 一時休戦して君も飲まないか?」
 快活に言うと、彼はテーブルにあったグラスを二つ取り上げ、ボトルから注いでアビーに差し出した。
「……ええ、いただきます」
 ためらったが、そう答えていた。これからの戦いに備え、少しカンフル剤が必要かもしれない。グラスを受け取ろうとしたはずみに指先が触れ、どきりとした。


「どうして一人で来た? お父さんは?」
 ラフな口調で問いながら、立ちつくす彼女に椅子を勧める。
 アビーは言われるままに座ると、グラスに口を付けてみた。淡い黄緑色の液体が、喉にすっきりと甘く染みとおっていく。その味わいに驚き、グラスをじっとみつめていると、彼が微笑んだ。
「ギリシャのワイン、メタクサだ。君には向いているんじゃないかな。気に入ったかい?」
「とてもおいしいわ」
 素直に賞賛してから自分を蹴飛ばしたくなった。まだ交渉を始めてもいないのに、こんな調子ではたわいもない小娘だと足元をみられてしまう。

「君達は旅行者だろう? どこから来たんだ?」
「ロンドンです。南フランスから立ち寄りました」
 それだけのことが、こんなとんでもない結果になるなんて……。
「カジノは初めてだったのか?」
「はい……、ほんの少しのつもりだったんです。ですが最初に勝ち続けたせいか、父もつい気が大きくなってしまったようで……」
「それがいつものディーラー達のやり方なんだ。知らなかったとは残念だな」
 顔をこわばらせて頷いた彼女に、相手の目が少し同情的になったような気がした。ほっとしたのも束の間、ディミトリス・クリスタコスは彼女の座っている椅子の背にグラスを持っていない方の手を突くと、アビーの顔を覗き込み、いきなり切り込んできた。

「それで? ミス・コートニー、まずは君の言い分を聞こうか」



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patipati
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12/09/05 更新