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PAGE 3



「先ほどのゲームでの、父の負債の件ですが……」

 いきなり本題に入られて、アビーは心に渦巻く狼狽を隠しきれなかった。こんな事態に陥るなんて悪夢としか思えなかったし、まったく想定外の成り行きに心底困惑していた。それでも、持てる勇気の全てを振り絞って、目の前に立つ男を見返した。

「先ほど申し上げたとおり、軽い気持で臨んだだけで、父にはその結果に対する何の準備も心構えもなかったんです……」
 ブルーグリーンの目と震える声に、必死の思いがにじむ。
「あなたにとって、1千万ユーロはごくわずかなお金かもしれません。でもわたし達にとっては……、一生かけても得られるかどうかわからないほどの大金なんです。今の父の全財産、いいえ、それ以上に相当します」
 予期していた、とでも言うように、男は無言でアビーから一歩離れた。手にしたメタクサをまた一口、口に含む。
「では聞くが……、もし逆の立場だったら、君のお父さんは支払いを免除してくれただろうか?」

 その答えに、アビーの望みは断たれた。今すぐ部屋に逃げ帰りたい衝動にかられたが、問題はまだ何も片付いていない。
 さらりと受け流したその男に、これ以上頼むことは、ありったけの勇気が必要だった。だが、父のためにアビーはあえて勇気を振り絞った。

「お願いです。この債務を必要な期間だけ、猶予してくださいませんか。そう……、せめて、父がもう少し落ち着いて、現実に立ち向かうことができるまでの間……。それから、父が所有している株式や不動産を売却するか、あなたに譲渡するとか……」

 ふいに、相手がくっくと笑い出したので、彼女は言葉を切った。真面目に言っているのに、何がおかしいの?
 彼は再び手を伸ばすと困惑しているアビーのあごをぐいと持ち上げた。目の前の男の表情から、さっき垣間見えたと思った暖かさは跡形もなく消えていた。打って変わったように冷たい、品定めするような視線を注いでくる。
 そのまま、彼は親指でアビーの少し開いた花びらのような唇をそっとなぞった。
「ブルーグリーンの瞳か……。こんな色は初めて見る。まるで曙光を浴びたエーゲ海のしずくのようだ」
 一人言のようにつぶやくと、彼はあっさり手を離した。そしていたってクールに言う。

「もう少し楽しませてもらえるかと思ったが、あまりに予想通りで、がっかりだな。そう来ると思っていたよ。もちろん君が言うように待てないことはない。しかし、男にそういう頼みごとをするときは、しかるべき方法があるんだがね。知らなかったかな?」


 アビーは早鐘を打ち始めた心臓を無視し、こわばった背筋をしゃんと伸ばした。萎縮してはだめよ。懸命に自分に言い聞かせつつ、先ほど賞賛された大きな瞳でじっと相手をにらみ返す。
「しかるべき方法? 弁護士を通せとでもおっしゃるんですか?」
「そんな無粋な話じゃない。もっとストレートで即効性のある方法さ。まだわからないかい?」

 言うなり、彼はアビーの両手をとると、椅子から立ち上がらせ、そのまま顔を寄せてきた。身動きもできないうちに、アビーは強引な唇に唇を奪われていた。

 びくっと身じろいだアビーの身体を鋼のような腕が捉えた。そのまま熱い舌先が唇を割るように侵入してくると、思わず呻き声がもれる。だが、それすらも絡み付いてきた熱い舌で絡めとられてしまった。  しばし、呆然としたまま、容赦のない激しい口付けに身を委ねていることしかできなかった。
 そのキスがもっと一方的で不快に感じられればよかったのに……。だが、アビーは初めて味わうその酔わせるような巧みなキスに、身体の奥底から溶け出しそうな甘い疼きがこみあげてくるのを感じ、戸惑っていた。
 ああ、信じられない……。この感覚は何なの?
 どう反応すればいいのかわからず、しばらく彼のなすがまま、苦しげに応えていたが、とうとうたまらなくなって、彼の唇から逃れようと身をよじらせた。
 アビーのささやかな抵抗に我に返ったように、彼が顔を上げた。その隙に夢中で彼の腕から身を引き離そうとする。だが、とても無理だった。眼に涙を浮かべ、荒い息をつきながらにらみ返すアビーを見下ろす彼も、心なしか息使いが荒くなっている。
 その眼に一瞬、激しい驚きの色が浮かんで消えた。何か考え込むように、そのまま見下ろしている。

「……君はバージンなのか?」

 やがて発せられたあけすけな問いに、かっとして、身を振り放そうと一層激しくもがいた。
「そ、そんなこと、何の関係もないでしょう……? 戯れはもうやめてください。この手を離して!」
 今度は彼もあっさりと手を離したので、アビーは自由になった。荒い息をつきながら、少し赤くなった唇を震わせて相手をにらみつける。
 ふいに、再び手が伸びてきて、頭の後ろで髪をひとつにまとめていたピンがはずされた。淡い金髪が背中から顔を隠すようにぱさりと落ちかかる。

 いくら未経験の彼女でも、今この男が何を言いたいのかは、いやと言うほどわかった。意志に反し、身体がぶるぶる震え出す。彼女の思いを察したように、男は低い声で言った。

「怖がらなくていい。かよわい女性に無理やり乱暴する趣味はないよ。もっとも、大いにそそられたのは事実だがね。だから、代わりに……」

 彼はメタクサのグラスを手に、バルコニーに彼女を誘った。否応なく一緒に出てみると、湿った海風が思いがけず心地よい。地中海が、雲の切れ目から現れた月光の下で、銀色の波しぶきを上げている。
 何かがくすぶるような暗い眼差しを、彼はアビーに向けた。

「服を脱いで……。今、君が見たい」
「えっ?」
「誰にも見られる心配はない。僕はここで、月の中の美しい君を鑑賞しているよ、マティア・ムー」
 『マティア・ムー(僕の瞳)』 その言葉はギリシャ語で、ダーリンと同じ意味だったと、アビーはぼんやりと思い出していた。
 一瞬、聞き間違えたのかと思った。だが、彼の顔を見て本気だとわかる。思わず感情的になって言い返した。

「わたしには恋人がいるんです! もし……、もしお断りしたら? どうなるんです?」
「おやおや、早くも交渉決裂かい? それは非常に残念だな。僕にとっても、君のお父さんにとってもね」

 彼は、さも驚いたとばかりに眉を上げると、甘く低い声でつぶやいた。それじゃ、とクールに背を向けられ、アビーは慌てた。すぐに立ち去れ、と言われているのだ。

 不本意ながら、彼の言葉に従う以外、選択の余地がないことを今悟った。

「待って! わかったわ!」

 部屋に戻りかけていた男の足が止まり、無言で振り返った。その顔に浮かんだ、自信に満ちた男特有の傲慢で満足そうな表情など見たくもなかった。
 相手を見ないようにしながら、アビーはゆっくりと着ていたジャケットを脱ぎ、傍らのデッキチェアの背に掛けた。ついで震える手でブラウスのボタンもはずしはじめる。

 ああ、トニー……。
 必死になって目を閉じ、今交際しているアンソニー・パウエルのハンサムな顔を思い浮かべようとした。彼にすら、まだこんな姿を見せたことはなかったのに……。
 だが、今目の前にいる圧倒的な支配力を持つ男の影響力の前には、会社の同僚の面影など、何の役にも立ちそうもなかった。

 紳士的そうに見えても、この男は所詮はカジノで稼いでいるような男だ。そんな相手と真っ当な交渉ができるなどと、どうして考えたのだろう。
 彼にとって、自分は今夜の戦いの戦利品に過ぎない。きっと、一夜のなぐさみにするつもりなのだろう。こちらの感じる屈辱など、一切関係ないのだ。

 なすすべもない中、かつてハイスクール時代、その容貌とスタイルのよさを見込まれて、ファッション雑誌のモデルのバイトをしたことを思い出した。
 あの時も、薄着でカメラの前に立ち、精一杯堂々と振舞った。今もきっとできる。せめて今感じている、この男への何とも形容しがたい不安を看破されたくなかった。徐々に肌をさらしながら、アビーは必死に持てるプライドをかき集めた。
 とうとう最後の小さな下着も脱いでしまうと、解けかけた髪だけが身を覆う唯一のものとなった。優美に片腕を上げて髪を梳くと、豊かな金髪が覆いのように胸元にかかり、少しほっとする。
 今すぐ雲が出て、月を全て覆い隠してくれればいいのに……。
 彼女は逃げ出したい衝動と必死に戦いながら、相手を見ないで済むよう、彼から90度の角度に顔を上げて、じっと立っていた。

 月光の中に、しばし濃い沈黙が漂った。聞こえてくるのは波の音だけだった。やがて、コツッと靴音がして、彼が静かに歩み寄ってきた。



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12/09/11 更新
ちょっと後書き、ブログにて。