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 幸い、ディミトリスも父の前では、昨夜二人が交わした屈辱的な会話や取り決めのことは、おくびにも出さなかった。
 いや、むしろ徹底的に『突然彼女と恋に落ちた婚約者』を装ってくれていた。時折自分に向けられるはっとするほど甘い笑顔を見ると、アビー自身でさえ勘違いしそうになるほどだ。敵ながら、そのことだけは感謝せざるを得ない。

「もっと楽しそうに笑ったらどうだ。お父さんを安心させたいんだろう?」
 ふいに耳元に顔を寄せてささやかれ、アビーははっと我に返って父を見た。自分の方が状況についていけず、うまく演技もできずにいる。
 彼の役者ぶりに半ば呆れ、半ば感心しつつ、アビーは何とか口元に微笑みを貼り付けて見せた。
「それでいい。では、明日の正午、ホテルのロビーで待っている、マティア・ムー」

 別れ際、彼女の唇に軽くキスしてそう言った彼は、なぜか楽しげに見えた。


ギリシャ  キクラデス諸島


 緑の半島を越え、眼下に青く広がるエーゲ海が見えてきた。
 波間に点在する無数の島々は、太古の昔を彩ったギリシャ神話ゆかりの地も多いと聞く。こんな形で来たのでなければ、どんなにわくわくするかしれないのに……。
 ディミトリスがチャーターした小型飛行機の窓から海を見下ろして、アビーは小さくため息をついた。
 本当に来てしまったんだわ。これでもうイギリスへは戻れない……。


 ソファ式シートの彼女の隣に座ってビジネス紙に目を通していたディミトリスが、それに気付いたように、アビーの背後から窓を覗き込んできた。

「上空付近に着いたようだな。もうすぐ降りるよ」
「……あなたの島に、ですか?」
 窓の外に目を向けたまま、他人行儀に問いかける。だが、たちまち伸びてきた手に、振り向かされてしまった。

「会話するときは、相手を見て話すのが礼儀だと教えられなかったのかな? 今後、特に僕の家族の前でこんな態度をとることは絶対に許さない。よく覚えておくんだ」
「あなたのご家族?」
 アビーは、はっとして真剣な顔で彼を見た。
「そう。夕べ連絡しておいた。母と妹がティラ島に来ているはずだ。あさっての僕らの結婚式のためにね」

 あさって!
 そんなに早く結婚式と聞かされ、アビーの心はまた激しくざわめいた。この人は、本当にそれで構わないのだろうか?

「……あなたは、本当にこのまま、わたしと結婚してもいいと思っているの?」
「ここまで来ておいて、またその議論を蒸し返すつもりかい?」
 あきれたように彼の眉があがる。アビーは硬い表情のまま答えた。
「もちろん、あなたとの約束をたがえるつもりはないわ。でも……」
「『でも』はなしだ。君はあさって、島のカテドラルで僕と結婚する」
「結婚までする必要が本当にあるかしら? 婚約でとどめておいた方が、返済後に問題が少なくなるとは思わない?」
「おやおや。本気で、この契約を反故にしたいと言うのかな?」
「いいえ、そんなつもりはないけれど……」
 慌てて言葉を濁すと、彼が嘲笑的に口を挟んだ。
「信じられないな。それなら僕にキスしてごらん」

 え? 戸惑って彼を見返したが、どうやら本気で言っているようだ。
 覚悟を決めて顔を寄せ、そっと口付けてからすぐに唇を離した。だが、彼は苛立ったように唸り声を上げた。
「違う! そんなキスじゃない。こうだ!」
 そのまま荒々しく唇をふさがれ、自分の所有を主張するように、滑らかで熱い舌先がアビーの唇を割り入ってきた。そのまま舌を絡ませ吸い上げられて、息がとまりそうになる。
 アビーは思わず身を硬くして、喘ぎ声を飲み込んだ。彼の手は華奢な身体を力づくのように抱き締めてくる。

 そのとき、着陸を告げるアナウンスとともに、機体が徐々に下降をはじめた。顔を上げた彼は、まだ目を閉じたまま不規則な息遣いをしているアビーをつくづくと眺め、「続きはまた次の機会だな」と呟いた。
 シートベルトを掛け直してくれた手はとても優しかった。混乱したまま、アビーは黙って着陸を待った。



*** *** ***


 断崖まで所狭しと建てられた真っ白の家並みとブルーの屋根が、紺碧のエーゲ海と鮮やかな対比を見せている。話に聞いたとおり、まさに白い宝石の島だ。
 まだ五月だが、日差しはイギリスよりもはるかに強かった。

 島の端の小さな空港に降り立つと、迎えにきていたリムジンにそのまま乗せられてしまった。
 隣に座ったディミトリスがほっとしたようにカッターシャツの襟元を緩めている。車は次第に細くなる道を岸壁の上に建てられた優美な白いヴィラへと向かった。

「ディミトリス兄さん!」
 二人が車から降りるや、ヴィラの二階のバルコニーから陽気な声がした。サンドレスの小柄な女性が、館の外壁についた細い階段を駆け下りてきて、彼に飛びつく。
 ディミトリスと同じ黒髪の、まだ少女と大人の境界くらいの面差しだ。
「やあ、エレーニ、相変わらずだな。元気だったかい?」
 彼も人懐こい笑顔になった。これまで見たことのなかったその表情に、アビーの目が釘付けになる。彼が妹の頬に軽くキスしてやると、彼女ははしゃいだ声でアビーに声をかけてきた。

「こんにちは! ディミトリスの妹のエレーニよ。それじゃ、あなたが兄さんの婚約者なのね? どんな人かと思っていたけれど、納得したわ!」

 その目に暖かな賞賛を読み取り、アビーは内心複雑な思いだった。それでも向けられた好意は純粋で、アビーも笑みを浮かべて差し出された手を握り返した。
 エレーニと呼ばれたその女性は、挨拶を終えるや、兄に向かって早口のギリシャ語で話し始めた。

『いくらお父さんの遺言のことがあったとしても、ちょっと驚いたわ。兄さんがイギリス人と電撃的に婚約したと聞かされたときのフィリスの顔ったら、ちょっと見ものだったわよ』
『フィリスも来ているのかい?』
 ディミトリスが少し顔をしかめて問い返す。答えるエレーニは楽しそうだった。
『ええ、そりゃね。自分が結婚すると思いこんでいた相手を横から外国人に横取りされたと聞いては、お父上ともども、お怒り心頭ってご様子だったわよ』
『誰が誰を横取りしたって?』
 まったく、と言わんばかりに大げさに頭を振る彼に、エレーニはけらけらと明るく笑うと、アビーにウィンクして見せた。

 ギリシャ語で交わされている会話に、アビーは不安になった。何度か出てきたフィリスというのは一体誰だろう? ああ、彼がせめてもう少し時間をくれればよかったのに……。ギリシャ語で話の流れを追うのは、初心者には到底不可能だった。訳がわからないまま、アビーは不安と困惑の目をディミトリスに向けた。
 それに気づいたように、彼が英語で妹に注意する。

「彼女はまだギリシャ語に慣れていないんだ。なるべく英語で話すようにしてくれ。改めて紹介するよ、アビゲイル。妹のエレーニだ。普段はアテネのハイスクールに通っている。僕より十五歳年下で、まだ十七のくせに生意気でね。エレーニ、こちらはミス・アビゲイル・コートニー。すぐにミセス・クリスタコスになる」
「オーケー、それじゃ、お母様にお知らせしてくるわ。もうお目覚めになる頃よ」

 彼女が陽気な鼻唄交じりに再び建物の中に消えると、ディミトリスはエレーニに続いて出てきた使用人らしき男女に、車から荷物を運び込むよう指示した。そしていかにも仲むつまじそうに、アビーの肩を抱き寄せてくる。
「改めて、ギリシャへようこそ。アビゲイル」

 そのとき、強い視線を感じた。
                                                                                            前方のテラスに立って、こちらをじっと睨み付けている若い女性がいる。アビーは、それがさっきの話に出てきたフィリスだと直感した。
 ディミトリスも気づいたようだが、さして気にも留めずそのまま歩き出す。

「あの、ミスター・クリスタコス、あの方は……?」
 そう呼びかけた途端、咎めるような目で見つめられる。
「僕の名はディミトリスだ」
 アビーの言葉が荒っぽいつぶやきとともに降りてきた唇にふさがれた。そのとき、前方から何かを叩きつけるようなはでな音が聞こえた。
 やっと彼の唇から解放されたとき、さっきの女性の姿はもう何処にも見えなかった。



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12/09/27 更新