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 アビーが案内された部屋は二階の美しい客室だった。
 島の端にあるヴィラからは、海岸の景観を余すところなく見渡せた。眼下の岩に砕ける波頭をぼんやり眺めながら、しばし置かれた状況を反芻してみる。
 彼が性急に自分と結婚しようとしている理由には、何かまだ聞いていない事情がありそうだ。そしてフィリスというさっきの女性のことも……。
 あの様子では、彼女はディミトリスと今でも結婚したがっているのだろう。なのになぜ、わざわざわたしを連れてきたの?

 彼の性急な態度や行為を思い返すと、全身がかっと火照るのを感じた。彼も少なくとも自分に、欲望といくばくかの情熱を感じているようだ。わたしも彼に求められると、なぜか拒否しきれなくなってしまうけれど……。

 それは……全部契約のため?

 ああ、わからない。彼に出会って、まだたったの三日なのよ。無理よ……。
 けれど、アビーの混乱にもかかわらず、事態はどんどん進んでいた。この三日間、自分の気持を考えるより、ただ逆らいがたく動いていく状況に翻弄されるばかりだった。
 わたし達二人の間にあるものは愛ではない。それだけは確かだ。彼が自分に関心を失ったらどうするのだろう?
 本当に後悔しないのだろうか。結婚は愛する相手としてこそ継続するものだ。互いに愛のない結婚なんて、すぐに破綻するのは目に見えているのに……。


 考えこんでいても始まらない。これから、彼の家族に正式に紹介されるディナーの席が待っているのだ。何を着ていけばいいのだろう?
 トランクから、何枚かのスーツやドレスを取り出してみるが、どれもしっくりこなかった。この屋敷での正式なディナーなら、やはりイブニングドレスだろうか? それも、カジノで着ていたドレスしか持っていないけれど……。
 そのとき、ドアにノックがあった。慌てて、ガウンの前をかき合わせてサッシュを結びながら返事をするとがっしりした体格の初老の女性が大きな箱を抱えて入ってきた。
 あらあら、まだそんなお姿で、と非難めいた目を向けられ、しかたなく、どういう服装がいいのかわからない、と正直に答える。
 聞くなり、彼女は笑顔になった。急いで持ってきた箱を開くと、中からディナー用のカクテルドレスとそろいのハイヒールが出てきたので驚く。
「旦那様のお心遣いですよ。気が利いてるじゃないですか」
 シャンパンカラーのフレンチスリーブのドレスで、袖と襟元、そしておそろいの靴にも、スパンコールとビーズで装飾されている。とてもゴージャスで洗練されたデザインだった。
 複雑な気持で頷くと、彼女はまたにっこりして、なまりのつよい英語で自己紹介した。
「わたしは当家のメイド頭のマリアと申します。御用はなんなりとお申し付けくださいませ」
 それからマリアは有無を言わさず、アビーを鏡の前に座らせると、長い髪を解き、もう一度念入りにとかし始めた。仕方なくされるがまま鏡に向かっていたが、ふと思い立ってディミトリスとその父のことを尋ねてみる。
 ああ、そのことですか……とマリアは小さくため息をついた。もう誰もが知っていることですからね、お話しても構わないでしょう、と前置きしてから話し始めた。

「大旦那様が、半年ほど前にお亡くなりになったとき、ある遺言を残していかれたのでございますよ。一向にご結婚なさる気配のないディミトリス坊ちゃまに、ご心配のあまりのお言葉だとお察ししております。でもねぇ、一年以内にご結婚し、跡取りができなければ相続権がなくなる、というのはちょっと酷なご条件では、と心配していたのでございますよ」

 跡取り? 子供ですって? そんなことまで!?
 目を見張って、アビーは鏡に映るマリアを見つめた。彼の性急すぎる求愛の背後には、そんな事情があったというの……?

「でも、それじゃ、あのフィリスという方は……?」
 衝撃と困惑を隠し切れないまま問い返す。彼女はわかりますよ、というように頷いてみせた。
「フィリス様にもお会いになられたのですね。そう、それで誰もが、ディミトリス様のご結婚相手の候補として、まず考えたのがフィリス様だったんですよ。亡くなられた大旦那様のおいとこである、ステファノス様のお嬢様ですし、当家のこともよくご存知ですからね」
「そんな人がいるのに、どうして……?」
 さらに訳がわからなくなり、思わず声が高くなった。マリアはまた吐息を漏らすと、彼女のドレスの着付けをてきぱきと手伝いながら答えた。
「フィリス様はとてもおきれいな方ですが、少しわがままなご性質でしてね。最近、特に旦那様やエレーニお嬢様とも、よく言い合いになっていたようですから……」
「………」
「ですが、あなた様がおいでくださったのですから、わたしどもも、もう安心ですよ!」

 励ましてくれる彼女の言葉にも、まったく賛同できなかった。今の話に一層心がかき乱されている。なるほど、そういう理由で、彼はこれほど強硬な結婚劇を演じようとしているのか……。

 子供ですって? なんてことなの!
 頬が熱くなるのを感じる。

 それにしても……、理解に苦しむことばかりだ。たとえフィリスが気に入らないとしても、彼なら全ギリシャ中の娘達からだって選べるはずだ。別に相手に不足はなかっただろうに、どうしてわざわざわたしを……?

 そこで思い出す。そうだった。全てはお金のため……。彼にとってこの結婚は所詮、一時的な契約に過ぎない。おそらく、その相続条件さえ果たせれば、いいのだろう。
 心がさらに冷え冷えとしてくる。


 仕上げのイヤリングとネックレスをつけてしまうと、メイド頭は四方からアビーを見て満足そうに頷いた。
「大層おきれいでございますよ。亡くなられた大旦那様も、きっとご満足なさっていることでしょう」
 マリアが部屋から出るのを待ち構えていたように、ディミトリスが入ってきた。
 彼も見るからに高級そうなオーダーメイドのブランドスーツ姿で、髪も整えられ、いっそう男らしく颯爽として見える。
 長い金髪をシニヨンにまとめ、シャンパンカラーのカクテルドレスに身を包んだたおやかな女らしい姿を見て、彼は目を細め、満足そうに頷いた。

「モンテカルロの店のウィンドウにあったんだ。君に似合いそうだと思ってね。やはり、目に狂いはなかったな」
「気遣ってくださってありがとう……。でも、別にそんな必要は……」
「大ありさ。君の恥は僕の恥になるんだ。そろそろわきまえてくれないと困るね」

 そう言いながら彼はスーツのポケットからおもむろに真紅のビロード張りの指輪ケースを取り出した。
 息を呑んだアビーの前に、数カラットはあるだろうダイヤの指輪が差し出される。柔らかな室内のライトを浴びて、夢幻の光彩を放っていた。
「ま、待って!」
 左手をとられる寸前に、反射的に引っ込めてしまう。隠された事情を直接聞くなら、今しかない。

 怪訝な顔になったディミトリスに、アビーは懸命に言葉を探しながら尋ねた。
「あなたがわたしをここに連れてきたのは……、父の賭けだけが原因ではなかったのね?」
 はっとしたように、彼は顔をこわばらせた。
「何の話だ?」
「さっきエレーニさんとあなたが話していたことよ……。マリアさんからも聞いたわ。あなた、お父様は亡くなったとおっしゃっていたけれど、お父様と何か取り決めがあったのね?」
「あのお喋りめ」
 不快そうに呟いた彼に、急いで弁護する。
「彼女は悪くないわ。わたしが聞いたから答えてくれただけ。もう公然の秘密だったようだし……。第一、結婚を強要されているわたしだけが知らないなんて、不公平じゃない?」
 不意をつかれたように彼は沈黙した。だが、アビーの目に浮かんだ真剣な光を見て取ったように微笑む。
「なるほど。君は普通の女達より、ずっと知性があって鋭いようだな。普通はそんな面倒な話より、ディナーやドレスの方を優先させるものだ。ますます気に入ったよ。いいだろう、僕の妻になる以上、君にも知る権利はある」
「そのことだけれど……」
 さらに話しかけようとしたアビーを片手で制すと、彼は彼女のブルーグリーンの瞳を覗き込んだ。
「僕の父は半年ほど前、正確にはニューイヤーディの前日に亡くなった。島や建物といった不動産とともに、少々厄介な遺言を僕達に残してね」
「その不動産相続の条件に、あなたの結婚も含まれていた、と言うんでしょう?」
「……まあ、そういうことだ。そこへ偶然にも君が舞い込んできた、と言う訳だ。おかげで面倒な相手探しの問題が一気に解消されたよ」
 皮肉っぽく微笑んだ彼の内心を図りかね、アビーは呟いた。
「結婚は……、愛する人とするものではないの? 少なくとも、わたしはそう思っていたわ」

 互いに借金や相続条件のために結婚するなんて、間違っている……。
 苦い気持が表情に出たようだ。ディミトリスの口調が苛立ったように素っ気なくなった。
「君の高邁な理想を打ち砕いたなら申し訳ないが、現実とはそんなものさ」

 それ以上有無を言わせず、彼はアビーの左手を取ると、薬指に強引に指輪をはめてしまった。そして、肩をかかえられるようにして、ディナーの席へと連れ出されていった。



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patipati
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12/10/01 更新