nextHome






PAGE 1



 ケリー・グラントの運転する小型乗用車が、オクスフォードからA−40に入った。
 ついにコッツウォルズまで来てしまった。辺りの景観がこの地域特有のハニー・カラーの家並みに変わる。
 ライムストーンと呼ばれる石で造られた古典的な建物が、道路沿いに切れ切れに続き、十四世紀から残るという伝統的な町や村が至る所に点在していた。緑の丘陵地を背景に、古き良きイングランドを偲ばせる風景が、まるで一枚の大きな絵のように広がっている。
 ロンドンからわずか数時間たらずのドライブなのに、違う国にやって来たような錯覚を覚えるほどだ。

 長い間、さんざん思い迷ったあげく、昨夜ようやく決心がついた。
 その気持が挫けないうちにと、まだ早朝、思い切ってアパートを出てきたのだった。だから時刻はまだ午前九時を少し回ったばかりだ。
 ケリーはさっきから少しずきずきと疼くこめかみに、そっと指先を当てた。それほど長時間走っているわけでもないのに、どうやらかなり神経質になっているようだ。


 コール・グラント……。ジョン・グレイアムの雅号で知られる著名な風景画家で、三年前、わずか二ヶ月間だけ夫だった人。

 いつも優しい光をたたえて自分を見ていた金茶色の瞳。思い出すだけで、まだ胸が激しく痛む。

 細い道を走るケリーの心に、彼との出会いから幸福だった短いハネムーンの時、そしてその後のうんざりするような灰色の日々とが、苦々しく交錯していた……。


◇◆◇  ◇◆◇  ◇◆◇


 コールに出会ったのは、職場の友人とロンドンのアートギャラリーに彼の個展を見に行ったことがきっかけだった。
 その頃、彼はすでに英国の画壇で知らぬ者はいないほど有名な画家だった。初めて見た彼の絵は、その評判にたがわないもので、描かれている風景一つ一つが、ケリーの心を直撃した。
 忘れ去っていたもっとも懐かしい記憶の扉を開き、すっと奥まで沁み込んでくるようだった。カンバスに描かれた表情豊かな森や木々に、癒されていくのをもっと感じたくて、ケリーはその後も一人で、何度もそこに通っていた。

「いつもとても熱心に見ているね。特に気に入った作品でもあるのかい? よかったら一緒に見て回らないか? 絵の説明もしてあげられるよ」

 遅い夏の夕暮れ、仕事を終えて、いつものようにギャラリーに立ち寄り見て回っていると、壁際にいた一人の男性からこう話しかけられた。ダークブロンドに金茶色の瞳の、とてもハンサムで魅力的な男性だ。
 彼を見た途端、心臓がどきどきと激しい音を立てて打ち始めた。画廊の案内係だろうと思い、その気さくさにつられて、当時二十歳になったばかりだったケリーは、にっこりして頷いた。
 当然のごとく、彼は美術全般に関する知識も非常に豊富だった。話に釣り込まれ、色々質問しても、丁寧に答えてくれる。その心地よい声に思わず聞き入ってしまうほどだ。

 彼の横顔を時折眺めながら、どこかで見たことがある気がするけれど、誰だったかしら? などと考えているうちに、おなかがすいてきた。
 はっとして顔を赤らめた途端、彼がくすくす笑って、「よければ、夕食につきあってくれないか?」と、画廊に隣接したレストランに誘ってくれる。
 彼はそこの店長とも顔なじみらしかった。店長推薦の白ワインとシーフード料理を堪能しながら、改めて互いに自己紹介し合った。
 コール・グラント、と名乗ったその男性は、ケリーより13歳も年上らしかった。彼からも、「まだ若いんだね」と言われてしまったが、それで彼の魅力が衰えるはずもない。むしろますます素敵だと思った。

 彼の正体がわかったのは、別れ際のこと。ギャラリーの壁に掛けられていた、彼女が特に好きだと言った一枚の小さな額を取り上げ、そのままプレゼントされた時だった。

「そこまで気に入ってくれたお礼にね。この絵も、ここにいるより、君に持っていてもらいたいと思うんだ」
「でも! これって、本物のジョン・グレイアムの絵なんでしょう? とても高価なものなのに、まさか!」

 彼の絵なら、ほんの小さな一枚でも何千ユーロもするのはよく知っている。驚いて辞退しようとする彼女に、コールはいたずらっぽくウィンクした。
「描いた本人が、君に貰ってほしいって言ってるんだから、いいんだよ」
 呆気にとられたケリーにいたずらっぽく微笑み返したその表情は、かつて雑誌でみた写真と同じだった。思わず大声を上げてしまう。

「ジョン・グレイアム! あなたが『ジョン・グレイアム』なんですね!」

 感激のあまりその絵を抱き締め、感謝を込めて彼に飛びついてしまった。その時、彼の体が急に強張ったのを感じた。はっとして顔を上げると、彼が顔を寄せてきた。滑らかな頬に優しくキスされ、目を閉じてしまう。
 彼が小さく呻いたような気がした。そして次の瞬間、ケリーの唇は温かな唇に覆われていた。

 それはごく一瞬のキスだった。何が起こったのかさえ、よくわからないまま、驚いて見動きしたとき、力強い腕に強く抱きすくめられた。だが、彼はすぐに腕を解いて顔を上げた。
 自分を見下ろした彼の瞳は、さっきとどこか違う色をたたえているような気がしたが、それが何なのか、見当もつかない。

 急に少し怖くなった。慌てて、回廊の壁の掛け時計を見るふりをする。
「もうこんな時間……。すっかり遅くなってしまったわ。わたし、帰らないと」
「家は近くなのかい? 送って行くよ」

 少しかすれた声で問いかけられたが、躊躇した。まだ出会ったばかりなのに……。
 有名人を相手に、あまりに急接近し過ぎた気がして混乱したケリーは、ただ控え目に「いいえ、大丈夫ですから。どうもありがとうございました」と堅苦しく礼を述べると、首を横に振った。
 貰った絵を大切に抱え、そのまま立ち去りかけたとき、その背中を追うように、彼が声をかけてきた。

「ケリー、もしよければ……、僕の絵のモデルになってくれないか?」

 モデル?

 予想もしなかった言葉に驚いて振り返ると、コールの真剣な視線にからめとられ、またどきりとした。
 おそらく、すぐに断るべきだったのだろう。だが、気がついた時、彼女はオーケーしてしまっていた。



 約束の日の午後、彼は車で彼女を待っていた。ポロシャツとスラックスにサングラスを手にした彼は、まるでハイキングにでもいくようなラフさだ。
 モデルと言うから、アトリエで長時間ポーズをとらなくてはならないのかと思ったが、連れて行かれた先は、ハイドパークの木と緑と花のただ中だった。

「自然にしていて。その方がいいイメージが浮かびそうだからね」

 唯一の彼の注文通りに、白いサマードレスを着たケリーの姿を眩しそうに見つめ、コールは彼女が頭の後ろにまとめていた柔らかなハニーブロンドを、器用な指で解いてしまった。
 その豊かな髪を初夏の風に溶けるように広げると、満足そうに目を細める。
 首筋に触れていた指先が、被写体のディティルを確かめるように、顔のラインから首筋、そして肩から腕へ、さらに脇から腰まで、滑らかに滑っていく。
 つい、どぎまぎしてしまった。彼は、画家としてやっているに過ぎないのに。そう一生懸命自分に言い聞かせるが、高鳴る心臓の音はどうしようもない。彼に聞こえているかも……、と心配になってくる。

「もしかして、緊張してるかい? 別に君を取って食べたりしないから、安心していいよ」
 ふいにからかうような声がして、はっとした。思わず頬を染めて目を伏せてしまう。
 彼は笑ってケリーを抱き寄せると、軽くキスしてから、手を取って木陰に広げたシートに座らせた。そこから少し離れた所に、持ってきた折りたたみ椅子を出して座ると、片足を膝に上げて、イーゼルのようにスケッチブックを載せ、ラフスケッチを始めてしまった。

 風と自然に包まれて、心が次第に開放的になっていく。彼は手を動かしながら、彼女に色々なことを尋ねてきた。
 通っていた学校のこと、今の仕事のこと、そして将来の希望のことまで。
 時折、休憩しては持参してきたお茶や焼き菓子を勧めてくれる。
 相手が有名人だということも忘れ、ケリーはごく自然に応え、ありのままの自分をさらけ出していた。


 それから、続けて何度も会うようになった。二人の関係が、単なる画家とモデルから突然変化したのは、木々の梢が金色に色づき始めた頃のこと……。

 絵は、もうかなり完成に近付いているらしかった。久し振りに戸外で描いている時、ふいうちのにわか雨が降り出した。二人は自分達より、カンバスが濡れないよう大急ぎでシートにくるむと、びしょぬれになって、車に戻る羽目になった。
 タオルの下でくしゃみをした彼女を見て、コールは運転しながら早口で言った。
「すまない、天気の変化にもっと早く気が付いていれば……。僕の家の方が近いな。早く熱いシャワーを浴びて、着替えないと風邪をひいてしまう」
 そのまま有無を言わさず、彼は自分のフラットにケリーを連れて行ってしまった。

 フラットは、ロンドン中心街にあるウェリントンロード沿いの、緑豊かで閑静な場所にあった。レンガ造りの瀟洒なたたずまいに、彼の趣味のよさがうかがわれる。

 素敵なお部屋……。

 意外な展開に困惑しながらも、ケリーは借りた寝室でシャワーを浴び、体にバスタオルを巻きつけただけで、濡れた髪のままガウンを身につけようとした時だった。
 ノックと同時に、彼がドアを開いた。
「ケリー、何か足りないものがあれば、遠慮なく……!」
 彼が絶句した。慌ててガウンをはおったが、もう遅かったようだ。
 呆然としたまま、互いの視線が熱く絡み合った。どちらが先に歩みよったのかもう覚えていない。耳元で彼の呻き声が聞こえ、気がつくと荒々しく抱擁され、唇を奪われていた。



nextTopHome



---------------------------------------------------------------

12/06/07  更新

どうせ書くならと、二人の出会い部分を追加してみました(次ページまで)
話の展開は元々と同じですが、理由や過程、細かいところに少し違いが出そうです。
本作既読の方も、これはこれで、お読みいただければ感謝です。。。