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 この人はいったい何を言っているの?

「聞こえなかったかしら? それとも意味もわからないほど子供なの? まったく、こんなうぶなお嬢ちゃんを相手にするなんて、あの人も仕方ないわねぇ」
 たちまち真っ青になったケリーの前で、ストッキングに包まれたすらりとした足を組みかえて、彼女は自信に満ちた笑みを浮かべた。そして、さらに追い打ちをかけるように続ける。

「あなたもかわいそうにね。その調子じゃ、彼のこと、よく知らないんでしょう。きっとあの人、責任を感じたんだわ。成り行きで、こんな子供を相手にしてしまったばっかりに!」
「………」
「でもね。今もあの人から一番愛されているのは、わたしよ。彼が必要としてくれているのもね。だから、わたしも譲らないわよ、お嬢ちゃん」
「出ていってください!」
「言われなくても帰るわ。わたしは、こんなところでのんびりしている暇はないんですからね! 明日も彼のパートナーとして、パーティに出なくてはならないのだし」
「帰って!」

 もう我慢も限界だった。とっさに叫ぶようにこう言うと、勢いに任せて押し出すようにドアを閉めてしまう。
 嘘だわ、嘘よ!
 今聞かされた内容の衝撃に、ジャケットを手にしたまま呆然としていると、そのポケットから彼の携帯電話がことりと落ちた。
 コール……。彼女のところにこれも忘れたと言うの……?
 それでは今すぐ電話して確認することもできない。苦々しい気持で携帯を拾い上げると、いけないと思いつつ、彼の通話履歴を調べてしまった。
 最近の通話に、アメリア、という名前が確かにずらりと並んでいる。自分との通話量よりはるかに多かった。その事実にまた愕然とする。

 急に、頭がくらくらし始めた。
 ついさっきまで、確かだと思っていた現実が、突然何もかも混沌としてくるようだった……。



 よく眠れないまま夜を過ごし、ぼんやりした頭にブラックコーヒーを注ぎこむと、ケリーは衝動的に車でバースに向かった。
 彼が今滞在中のホテル名は聞いている。彼を探し出して説明を聞き、携帯電話も渡さなければ……。そうすればすぐ、彼は違うと言ってくれるだろう。それまでは、一時たりとも気が休まりそうにない。

 だがようやく探し当てた場所で見た光景は、昨日のアメリアの言葉を裏付けるような、さらに衝撃的なものだった。
 それは打ち上げパーティ会場のようだった。『彼とパーティに出なければならないんですもの』と言っていた通り、集まった華やかな人々の中を、コールがアメリアをエスコートして歩いていた。肌の露出したドレス姿の彼女が、あでやかな笑みを浮かべて我が物顔でコールの腕にまつわりついている。  ふいに、彼女が唇を寄せ、彼に何かささやいてキスした。周りから歓声と拍手が沸き起こる。

 ケリーの全身ががくがくと震え出した。咄嗟にきびすを返すと、逃げるようにその場を後にする。息せき切って車に戻ると、まだ荒い息をつきながら、頭をハンドルに押し当てた。
 二人はとても似合っていた。完璧に成熟した大人のカップルだ。画廊のオーナーと画家? アメリアの言葉を借りるまでもなく、あの態度からは、二人の関係がそれだけとはとても思えなかった。
 自分など、とても入っていける雰囲気ではない……。

 それじゃどうして、コールはわたしと結婚したの?
 ぐるぐる回り始めた意識の中で、アメリアの声が馬鹿にしたように響きわたる。

『あの人、責任を感じたんだわ。うぶな子供を相手にしてしまったばっかりに……』
 同時に、初めて抱かれた時の彼の言葉が、オーバーラップした。
『初めてだったのか』

 ああ、そんな……!
 本当に責任感でプロポーズしてくれただけだったの?
 そんなもの、欲しくなんかなかったのに!

 事故を起こさず、無事にファームハウスまで辿りつけたのが奇跡だった。
 その夜のうちに、ケリーは震える手で自分の荷物をまとめた。彼から貰った指輪や携帯もすべて引き出しに残すと、夫が戻ってくる前に『ホーム』を後にしていた。



 それからの数日間、ケリーは放心したようにロンドンの友人の部屋で過した。突然、転がり込んできた彼女の思い詰めた顔を見た友人から、ひどく心配されたが、あまり多くは語らなかった。
 田舎の母親に電話して、コールと別れるから、と力なく告げると、あれこれ詮索される前に急いで切ってしまった。
 幾晩も泣いて、ようやく少し落ち着いてくると、次に現実が襲ってきた。いつまでもめそめそしてなんかいられない。少ない自分の貯金をはたき、もう一度アパートを借りると、大急ぎで事務職の仕事を見つけた。
 日々伝票と会計に追われているうちに、時は過ぎていった。最初の一,二か月は、もしかしたら、夫が尋ねてきてくれるのではないか、と、期待をかけて待っていた。
 だが、彼は訪ねてくるどころか、何の連絡もない。三か月過ぎ、半年が過ぎる頃には、もう彼は来ないとはっきり悟った。
 自分がいなくなって、向こうもせいせいしているのだろう。今頃は、あの女性と親密に過ごしているに違いない。

 そう思うだに、激しい嫉妬心に駆られた。彼が恋しくて眠れない夜もたびたびあった。
 その頃から、インターネットニュースや画報、週刊誌などから、ばったりと『ジョン・グレイアム』に関する記事を見かけなくなっていたが、その理由を深く考えることもなかった。彼の消息など、知らない方がいい……。

 こうして、目も眩むような――実際眩んでいたとしか思えない――恋をして結婚してからわずか数か月後には、二人は夫婦とは名ばかりの、紙切れ一枚の関係になってしまったのだった。
 そのまま、三年の月日が流れていった……。


◇◆◇  ◇◆◇  ◇◆◇


 古い大きなファームハウスの壁面に絡まりついた小さな薔薇が、今にも開きそうな愛らしい赤い蕾をつけている。

 { WELCOME TO LITTLE GARDEN HOUSE・ B&B }

 青いペンキで書かれた白いこじんまりした看板が、傍らに出ているのを不思議そうに眺め、ケリーは懐かしい家の玄関扉の前に立って、しばらくためらっていた。
 ここに来た目的を思い出し、ようやく思い切ってベル代わりの小さな吊鐘を引く。
 応対を待つ間、自分の服装を再びチェックしてみた。上品なミニタイトスカートとシックなデザインのジャケットは、彼女の持って生まれた気品を、いっそう引きたててくれているはずだ。今は訪問の目的に見合った、交渉に強い都会の女を演出する必要があるのだから。

 ああ、だけどもし、出てくるのが彼ではなく、アメリアだったら……。

 だんだん心臓が激しく音を立てはじめるが、待てど暮らせど誰の気配もない。恐る恐るノブに手をかけると、ドアはたやすく開いた。
 誰もいないのかしら? ちょっと不用心ね。
 そう思いながら、そっと中に入ってみる。やはり誰もいなかった。内装があまり変っていないことに安堵を覚えながら、奥まで入っていく。
 三年も経っているのに、なんだか不思議だった。長い間、思い出すことも辛かったのに、いざ帰って来てみると、とてもなつかしいなんて……。


 真っ先にダイニングルームを覗いてみる。覚悟はしていたが、その壁を見てやはり落胆した。あの絵が掛けてあった場所には、今はもう何もなかった。
 そう。わたしを描いたあの絵も、とうに処分してしまったのね……。
 でもそれも当然だ。今さら寂しく思うなんて、心はまったく勝手なものだ。
 だが、これなら話し合いも早く済むだろう。今、誰もいなくて幸いだった。少なくともあと少し、気持を整える猶予ができたようだ。

 次にキッチンを覗くと、シンクに朝の食事の後がそのまま雑然と残っていた。来客用の食器が幾枚か、汚れたまま無造作に積み上げられている。
 もしやお客様があって、一緒に出かけたのだろうか? それではいつ帰ってくるのだろう?

 でも、連絡もしないで突然来たんだから、仕方ないわね。
 そう苦笑すると、ケリーはジャケットを脱いでシンクの前に立ち、皿を片付けはじめた。洗った食器を乾燥機にかけながら、なんだか口元がほころんでくる。
 かつてこの場所で笑いながら、じゃれ合うように遅い朝食の支度していた二人の姿がまた蘇り、胸に痛みが走った。



 庭先からエンジン音が聞こえ、ケリーの物思いは破られた。
 はっとして窓から覗くと、駐車スペースに停まった黒いランドローバーから、背の高い人影がゆっくりと降り立つのが見えた。ハウス脇に停めた彼女の車に気づいたらしい。立ち止まって眺めている。
 急にドキドキしてきた。出ていった方がいいだろうか。少なくとも、キッチンでぼんやりしているべきではないだろう。
 そう気がついて、あわててジャケットとバッグを取りあげ、玄関ホールへ戻ろうとした。
 そのとき、よく通る低い声が響いてきた。

「ケリー? ひょっとして君なのか?」

 急くような声と共に、急ぎ足でこちらに近づいてくる。思わず足が止まってしまった。
 背中に強い視線を感じる。まるでひりひりと焼け付くよう。我慢できなくなって、覚悟を決め、ゆっくりと振り返った。
 ダイニングから続く開いたドアにゆったりともたれかかって、コール・グラントが、自分を見つめている。

 少し伸びたダークブロンドの髪を除けば、ハンサムだが感受性の強そうな顔つきも、身体全体からにじみ出る男らしさも、圧倒されそうなほどあの頃と変っていなかった。
 謎めいた輝きを放つ金茶色の瞳が、まるで彼女の全てを写し取ろうとするかのようにじっと注がれているのを感じ、つい目を伏せてしまった。


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12/06/11 更新