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 彼の当てこすりも、実は一部だけ鋭く真実をついていた。ケリーは思わず頬を赤らめ、彼の険しい顔から視線をそらしてしまった。
 コールの口元がぐっと引き結ばれ、目に強い怒りの色が加わる。

 事実……、会社で知り合った数歳年上の男性と、半年前から何度かデートはしていた。
 その間はそれなりに楽しかったが、こちらにはそれ以上の関係に進むつもりは毛頭無かったのに、向こうはどうやら違ったようだ。
 ある晩、その相手から結婚を仄めかされ、ホテルに誘われた。その時、彼女は自分の気持が全く動かないことに気付き、愕然としたのだった。
 何より自分自身、とっくに終っているコールとの結婚に、そして、夫であるコール自身に、まだこんなにも縛られている、ということに、初めて気がついたのだった。
 結局その相手とは、それきりになった。別に残念にも思わなかった。

 ただ、違う意味で衝撃が残った。三年このかた必死になって、思い出すことも避けていたコール・グラントとの結びつきに、もう一度直面せざるをえなくなったからだ。そして、自分の心がまだ彼に囚われたままだったという苦い事実を、つくづくと思い知らされた。
 もういい加減、決別しなければ。そうしなければわたしの心が、ここから先、どこにも進めない……。

 まずは、今の中途半端な状態に決着をつけてしまう必要がある。
 そう悟ったケリーは、弁護士に相談して見た。弁護士は彼女の話に最後まで耳を傾けた後、ご主人とよく話し合ってみることだと、現実的なアドバイスをくれた。確かに、彼女が一方的に飛び出してきた訳で、話し合いも何もしていないのだから、返す言葉もない。
 だが、いきなり会いに行くのも気が引けた。向こうも今まで何も言ってこなかったくらいだ。案外、書類であっさり片がつくかもしれないと、ひと月ほど前に、離婚を申請する書類と一緒に、極めて事務的な手紙を書いて、ここに送ってみたのだ。
 だが、一向に返事が来ない。今も、彼がコッツウォルズに滞在していることは、前もって確認済みなのに……。
 それでついに思い切って、今日ここまで出向いてきたのだった。


「図星か。まったく結構なことだな」
 コールのあざけるような口調に、ケリーは我に返った。思わずかっとなってテーブルに両手をつき、勢いよく立ち上がる。

「何を言っているの? わたしはただありのまま話しているだけよ。あなたこそ、ミズ・アメリアとはどうなったのかしら? とっくに一緒に暮らしてると思ってたわ」
「アメリアだって? アメリア・ギブソンのことか?」
 眉間に意外そうなしわを寄せ、コールはオウム返しに繰り返した。
「突然、何を言い出すんだ? 僕らのことと彼女と、いったい何の関係がある?」
「……関係ないとおっしゃるつもり?」
 あきれた、とばかりにケリーは思い切り肩をすくめて見せた。
「しらばっくれるのが、本当にお上手なのね。実際に見ていなければ、本気にしてしまうところよ。察するところ、毎日こんな暮らしで、彼女にも逃げられてしまったのかしら?」
「……御託を並べるのも、いい加減にしろよ」
 さらに怒ったように目を細めたコールに、もういいわ、と切り返す。
「あなたこそ、三年もほったらかしていた形ばかりの妻に、今さら関心がある、なんて言いだすつもりじゃないでしょう? それこそ、馬鹿馬鹿しいわ」
「僕がそうしたくて、君のことを『ほったらかし』ていたとでも思うのか?」

 コールの瞳が陰り、再びさっきの何かがこもったような気がした。強烈な苦々しさ。あるいは深い痛みのような色が……。


 その時、背後の暖炉の上の電話が鳴った。さっと立ち上がり受話器を取りあげた途端、彼の口調はビジネスライクなものに変わった。
 短いやりとりのあと、受話器を置いたコールは思案顔になっていた。

「お部屋の予約が入ったみたいね」
 さっきの険悪なムードが途切れたことにほっとしつつ、軽くこう訊ねる。
「うん、ちょっと……ね」
 そこで、はっとしたように彼女に目を向け直した彼の顔に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

「今、君がここにいるのも何かの縁だな。頼むよ。今夜と明日の朝だけ、ちょっと手伝ってくれないか?」
「ええっ!? 手伝うって、いったい何を?」
「聞いての通り、急な予約が入ったんだ。今夜の泊まり客が二組で、来客数は五人さ。ということは、明日の朝は五人分の朝食を準備しないといけなくなる。部屋も三部屋必要になるんだ。シングルが一部屋、ダブルが二部屋。あと、お茶のしたくとかね」
「待ってちょうだい、それは、あなたの事情で、わたしには関係なんて……」
「こんなにいっぺんに予約が入ったのは、わがB&B初まって以来のことなんだ! おっと、冷蔵庫の残りが少ないな。買い出しに行かないといけないぞ。よーし、コーヒーを飲んだらひとっ走り町まで車を走らせよう。もちろん君もつきあってくれるだろう? お礼に午後は、君がまだ行ったことのない場所に案内してあげるよ」
「……で、そんなにお客様が来るのに、わたしが休む部屋は残っているのかしら?」

 腰に手を当て、半ばあきれたように問いかけたケリーに、コールの顔がおかしそうにほころんだ。
「もちろんさ。ちょっと待っててくれ。さっそく準備するよ」


◇◆◇  ◇◆◇  ◇◆◇


 スーパーマーケットから車でハウスに戻る途中、ケリーは後部シートに置かれたいくつものショッピングバッグや箱を眺め、あきれたように口を開いた。
「こんなにたくさん買い込んで、もしこの先、お客さんがなかったらどうするつもり? 冷蔵庫の中で腐っても知らないわよ」
「なに、その時は自分で食べるさ。馬のようにもりもりとね」
「まあ、そんなことばかりしてると、そのうちぶくぶく太るから」
「言われてみれば……、うーん、最近ちょっと太ったかな?」

 運転しながら白い歯を見せて微笑んだコールの傍らで、ケリーはちらりと彼の身体に目を走らせた。今着ている細いストライプのカッターシャツの下には、無駄な贅肉など一片もついていない。相変らず引き締まった身体つきは、野生の獣のようにしなやかだ。
 ふと、シャツの下の滑らかな肌の感触が蘇って、目をそらしてしまった。慌てて窓の外に目を向けると、視界いっぱいに緑の丘が広がっている。

「ロンドンとは、迎える春の景色も全く違うだろう? とっておきの場所があるんだ。せっかく帰ってきた記念に見ていかないか? 幸い天気も最高のピクニック日和だし。君は実にいい日を選んで来たね。この晴間は貴重だよ」

 フロントガラス越しに空を見上げ、彼が陽気に声をかける。ケリーは少しとまどった。離婚の話をしにきたはずなのに、どこをどう間違ったのか、二人でピクニックに行く話になっている。
 断ろうとして、とっさに思い返した。ここに来るのも、きっと今日が最後だ。案内してくれると言うのだから、観光がてら行ってみるのも悪くない。
「そうね」
 軽く微笑むと、ミラーの中でコールも微笑みかえした。
「よし、決定。これでさっきのランチバスケットが無駄にならずに済むぞ。まずこいつを家のフリーザーにほうり込んで、と」
 車がいつの間にかハウスに戻っていた。大きなショッピングバッグと箱を抱え、すたすたと中に消えたコールは、やがて、水筒とシートをいれたバッグを手に戻ってきた。
「それじゃ行こうか」



 『ひつじ小屋のある丘(コッツウォルズ)』、という名の通り、緑の丘陵地には羊達が至る所でのんびり草をはんでいた。
 かつては羊毛で知られた地方だっただけに、産業革命以後都市に工業が移ったあとも、当時の名残を色濃く留めている。

 やがて二人は、水車小屋のある村に着いた。村の真ん中を通る道沿いに、澄んだ水がせせらぐ小川があり、その道の反対側には十八世紀か、あるいはもっと前に造られたような石造りの家が、昔ながらの静かな佇まいを見せている。それほど目立つものはないが、何ともいえない安らぎが立ち込めた場所だった。
 コールは村の中ほどに車を停めると、先ほどの荷物を取り出し、肩にかけた。
 二人は川沿いの道をゆっくり歩いた。平日だからか、大きな道路がないためか、行き過ぎる観光客もさほど多くない。のどかな陽射しの中、美しい花やグリーンに囲まれた古い家の色彩豊かな窓辺を見るのは、とても新鮮だった。ある家の庭を見ながら、ファームハウスのテラスのアレンジを考えている自分に気づき、苦笑する。
 村の牧場の柵から、中へ入ろうとするコールに、私有地では? と訊ねると、彼は小さな案内板を指してにっこり笑った。
「この看板が出ている所は、私有地でも通行OKなんだよ。知らなかったかい?」
 そして、空いた方の手でケリーの手をさりげなく捕まえ、木戸を開いて牧場に入っていった。羊達も慣れているのだろう。突然の闖入者に驚く気配もない。
 彼と手をつないだまま木漏れ日の中を歩いているうちに、再び視界が開ける。二人は牧場の敷地を出て、丘の小道に来ていた。



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12/06/13 更新