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 案内されたその場所は、風の中に溶け込んだまま、人の記憶からは忘れ去られたような古い散歩道だった。
 もとは、別荘の庭園だったようだ。過ぎ去った時の中に消えた人々の名残をかすかにとどめるように、四角い石を並べた通路が、下草の陰から顔を覗かせている。

 丘の上に広がる青空には羊のような白い雲がふんわり浮かび、甘い香りを放つ野生の花があたり一面、我が物顔に咲き誇っている。二人の位置から、かなり遠方まで見晴らせた。周囲には人影もなく、ただ風だけが軽やかに舞っていた。

 まるで時間の外に、二人きりでとり残されたみたい……。

 ケリーは、一瞬我を忘れてその風景を見つめた。ビルや雑踏に慣れた彼女の瞳が、吸い寄せられるように釘付けになる。

「ここ……、以前どこかで見たことがあるような気がするの」
 怪訝な顔で夫を振り返った途端、彼の個展に出ていた一枚の絵が脳裏に鮮やかに蘇った。
「あなたの絵にあったわ! そうよね?」
 まじまじとコールの顔を見る。彼の口元に笑みが浮かんだ。
「覚えていてくれて嬉しいよ」
 ケリーは慌てて視線を戻し、彼より一歩前に踏み出した。
「何て言ったらいいか……。とても心が落ち着いて、清々しい気分になってくるみたい。それに本当に静かね。まるで牧神の角笛の音でも聞こえてきそう」
「なかなか詩人だね、君も。だがそう言ってくれると来たかいがあったな。ここには、ある種の浄化作用みたいな力がある。そう感じないかい?」
「浄化……?」
「そう。無益な日常に倦み疲れた心が、安らぎを求めて帰る故郷に似た……」
 ケリーは戸惑いを隠すように、軽くいなした。
「あなたはやっぱり芸術家ね。感じ方がわたしのような凡人とは全然違うみたい。でも、それならどうして絵を……」
「たしかに、ちょっと頭がどうかしてるかもしれない。久し振りに、君を前にしたせいかな」

 ふいに、コールは彼女を遮るように少し言葉を荒げると、先に立って歩き出した。彼の動きはきびきびしていて、内心は何も窺えない。黙って後ろ姿を見つめていると、彼はまた振り返った。
「陽射しが強くなってきた。向こうに見える大きな樹の下まで行こう。あそこでランチにしないか?」
「いい考え」
 彼女は敷き物のバックを取りあげると、「競争よ」と一声をかけて先に駆け出した。コールもランチボックスを肩にかけ直し、走ってくる。
 少し息をきらせて笑いながら、二人はシートを広げて木陰に座った。



 それは、ここに来た目的を忘れそうなほど、くつろいだひとときだった。
 さっきハウスで見せた複雑な表情など完全に忘れたように、コールは軽い冗談を言ってケリーを笑わせたり、近所の出来事をユーモラスに話しながら、サンドイッチやチキンを次々に平らげていく。

 いつしか、ケリーは現実離れした不思議な感覚に捕えられていた。これからもずっと彼と二人で、楽しく過ごしていけそうな錯覚さえ覚える。
 心地よい風の中、かわす何気ない会話。夫の傍に当たり前のように座って、何の不安もない。ここ数日、寝付かれないままベッドで悶々としていたことが、急に馬鹿らしく思えてくる。
 それにしても三年ぶりに会った離婚目前の夫と、こんなふうに時間を分かち合っているなんて、いったいどうしたんだろう? まるで魔法にでもかかったようだ。
 そう。コッツウォルズの春の魔法に……。

 あれこれ考えるのはあとでいい。今だけ、この夢の中にまどろんでいたっていいじゃないの。
 空っぽになったランチボックスを脇に置き、ケリーは何気なく問い掛けた。
「この向こうには何があるの?」
 返事がない。彼に目を向けたとたん、一心に自分の横顔に注がれている金茶色の瞳にぶつかった。いつから見ていたのだろう。
 どきりとしたが、懸命に何気なさを装い、曖昧な微笑みを浮かべて牽制した。
 彼も我に返ったように視線をそらせると、一つ咳払いをして、また説明を続ける。

「この向こうには……、また村がある。そこにもまだ羊を飼ってる家がいくつかあってね。彼らの牧場や畑なんかがあるんだ。あとは人手の入らない丘がどこまでも」
「あなたは、子供のころからずっと、ここに住んでいたの?」
「そうだな、僕が養父母に引き取られた時から、もう二十年以上経つかな」
 その言葉に、ケリーはさっと顔を上げた。
「養父母……? 以前あなた、たしかお父様もお母様も亡くなったって言ってたわね。でもそんな話は初めて聞くわ」
「そうだっけ?」
「実の御両親はどうなさったの?」
 彼の顔に苦い色が浮かんだ。こんな話は早く切り上げてしまいたいというように、そっけない口調になる。
「べつに……。よくある話さ。僕の親父はロンドンの下町出身で、僕が物心ついた頃にはいつも酒びたりだった。重度のアルコール中毒患者としてついに施設に収容され、母はそんな親父に愛想をつかして、何もかも捨てて出て行った」
「あなたまで置いて?」
「……そうだ」
 彼は急に苛立ったように、声のトーンを上げた。
「もう忘れてくれよ! 話して楽しい内容でもないし、もう二十五年も昔のことだ。わざわざ言うまでもないと思っていたよ」
「それでも……、話しておいてほしかったわ」
「どうしてさ? 話したら、君が同情してくれて、あの頃の僕らの関係が何か違ったとでも?」

 痛烈な皮肉に、ケリーは言葉を失った。
 一緒に暮らしていた頃、こんな話は聞いたこともなかった。いや、新しい生活に慣れるのに手いっぱいで、彼のことを詳しく知る余裕すらなかったのかもしれない。
 ケリーの瞳も、今や真剣そのものだった。

「それでお母様が出ていってから、あなたはどうしたの?」
 コールの口元がひきつった。
「もうよそう。念のために言っておくが、別に君に何か期待して、こんな話をしたわけじゃない。世間ではそう珍しいことでもないだろう?」
「あなたは、いつもそうやって大事なことを自分の胸だけにしまい込んでしまって、わたしには何も見せてくれなかったわ。いつも子供扱いして。でも、これが本当に最後だもの。教えてくれたっていいでしょう」

 コールの目が怒ったように細められたが、ケリーはひるまず真っ直ぐに見返した。ややあって、彼のざらついた声が落ちた。

「その後……、僕はしばらく施設にいた」
「どれくらい?」
「四年ほど、だったな……。そこで幸運にも養父母が見つかって、ここに引き取られて来たという訳さ」
「そうだったの……。新しい御両親は、あなたに優しくしてくださった?」
「ああ、とてもよくしてくれたよ。そして僕が絵を描くのが好きだと知って、学校へ行く傍ら、習わせてくれたんだ。その頃僕が、憑かれたように描き出したのが、ここの風景だった」
 彼は目を閉じてしまった。ほとんど聞き取れないような低い声が漏れる。
「やがてその絵が展覧会で認められて……。今の僕があるのは、全て養父母のお陰だよ」
「あなた、どんなにか傷ついたでしょうね、その時」
 何と言ったらいいのか、ケリーにはわからなかった。
「たぶん、そういう経験をした普通の人間が傷つく程度にはね」
「わたし、本当にあなたのことを何も知らなかったんだわ……」


 その時、コールがひたと彼女を見据え、突然うなるような声を上げた。
「そんな目で僕を見るんじゃない。後悔するようなことになっても知らないぞ!」

 一瞬、ケリーには何が起こったか分からなかった。突然背中に力強い腕が回され、力任せに引き寄せられた。片手が顎にかかり、強引に上向かされた途端、コールの唇が荒々しく覆い被さってきた。
 たくましい胸に身動きできないほどしっかりと押し付けられ、上体を締めつける彼の腕は痛いほどだ。
 強引に唇を開かせようとする彼に思わず抵抗しようとした。だが彼の唇は離れるどころか、まるで力づくのように分け入ってくる。差し込まれた舌が彼女の口中を激しくまさぐり、果てしなく彼女を求めては味わう。薄いブラウスの上から身体を愛撫する彼の手は、共に暮らしていた頃の記憶を辿るように執拗で鮮烈に動いた。
 まるで、思い出の中に埋もれてしまった二人の情熱のありかを探し当て、もう一度白日の元に曝け出そうとでもするように……。

 やがて観念したようにケリーの手が上がり、更に深い口づけを求めてしっかりと彼の首に巻き付いた。眠っていた彼女の感覚が目覚め、より深いつながりを求めて呻き声を上げはじめる。
 ふと、何かが心の琴線に触れ、ケリーの目から涙が伝い落ちた。その涙が自分の頬を濡らしていることに気づいたように、コールは荒い息をつきながら、少しだけ顔を上げた。

 彼が離れてしまう……。

 ケリーはおそるおそる目を開いた。目の前に、自分をじっと見つめる彼の瞳があった。細めた瞼の奥に金色の炎がゆらめいている。彼女のすべてを焼き尽くし、飲み込もうとする貪欲な炎……。
 けれどその荒々しい表情とは裏腹に、頬をぬぐってくれる指先はとても優しかった。耳に不規則な息遣いがかかる。内なる激情の渦に飲みこまれまいと抗いながら、彼が身を固く強張らせるのを感じた。
あまりにも突然の成り行きだった。ケリーの青い目には、たった今目を覚ましたばかりの情熱と、それに対する強い困惑とが同時に浮かんでいた。彼の全てが近くにありすぎて、考えることさえできない。
 彼女が身動きした途端、耳元で低い声がささやいた。

「だめだ、行かないでくれ。……まだ今は」


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12/06/13 更新