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PAGE 8


 ようやくハウスが落ち着きを取戻した時には、夜もかなり更けてきていた。

 ケリーはシャワーを浴びると、彼が貸してくれたシャツと短いコットンパンツを着た。客が二階から降りてくるかもしれないのに、バスローブで動き回るのは不謹慎だと思ったからだ。
 喉が渇いたので、飲み物を取りにキッチンに入ろうとすると、コールが何かを考え込むようにそこに座っていた。
 彼はまだシャツにジーンズ姿のままだった。入るのをためらいドアの所で立ちどまっていると、彼が気配に気付いて顔を上げた。

「どうしたんだい?」
「ちょっとのどが渇いて……。それに、わたし、あなたにお話があるの……」
 また沈黙があった。やがて彼は「わかった」と静かに頷くと「ダイニングで待っててくれ」と言った。
 彼女のためにレモネードを作って近づいてくる彼の表情には、いつもの穏やかさが戻っている。

「今日はありがとう。お陰でとても助かったよ。やっぱり女性がいると雰囲気が全く違うもんだな。君だって客みたいなものなのに、あれこれこき使って悪かったね」
 ケリーはグラスを受け取りながら、茶目っ気たっぷりに見返した。
「あら、本気の賛辞と受け取っていいのかしら? それに、わたしも楽しかったからいいのよ」
「そうかい?」

 コールはまるで意識するように、彼女から離れた椅子に腰を下ろした。彼の手に、琥珀色の液体の入ったグラスがあるのに気づき、思わず自分のと見比べると、彼の眉がおやっと云うように上がった。

「君は飲まなかったよな、たしか。今は違うのかい?」
「いいえ、違わないわ。よく覚えてくれているなと思って。ありがとう」
「どういたしまして、と言うべきかな。ところで明日の朝は、ゆっくりしてくれて構わないよ。朝食は僕が何とかするから。君は今朝も早かったんだし、疲れただろう?」
「大丈夫よ。それに明日の朝も手伝うつもりよ。いいでしょう?」

 ケリーは明るく答えた。確かに疲れてはいるが、こんな充実した心地よさはついぞ覚えがないほどだ。
 今日は実に様々なことがあった。まるで今朝ロンドンを発ってから幾日も過ぎたような気がする。

「あなたは? 明日もまた出かけるの?」
 レモネードに口をつけながらケリーは、また黙り込んでしまった夫にそっと話しかけた。
「あなたの今の生活は、毎日こんなふうなのね。見た目よりも大変なのね。B&Bって、ベッドとブレックファーストの提供だけだと思っていたけれど」
「……そうだな。けっこう客との交流や準備にも神経を使うかもしれない。相手によっても違うんだ。プライバシーを大事にする客も多いから。あとたまに、外国からの旅行者もいる。もう慣れたけどね」
「でもこれじゃ忙し過ぎて、他のことをする時間なんてないくらいじゃないの」
「毎日こうとは限らないよ。それに、だからいい気晴らしになるとも言える。忙しければ他のことを考えずに過ごせるし、何より収益になるからね」

 軽く返された言葉を聞くなり、ケリーはさっと身構えた。いよいよチャンスが巡ってきた。彼に装備する隙も与えず、いきなりずばりと核心に切り込んだ。

「でも、あなたの仕事は絵を描くことだと思っていたわ。どうして今、描いていないの? さっきの女の子達が言っていた通りよ。あなたは描くべきだわ。それこそがあなたの天職なんだもの」

 リラックスしていた夫の表情が再びさっと強張った。精悍な顔に、またやりきれない表情がよぎる。やにわに、彼は手にしたグラスをぐいっと一息に煽った。二人を取り巻く空気がまたもや張り詰めたが、今度はごまかされるつもりはなかった。
 まるで根くらべのように、二人はしばらく押し黙っていた。やがてコールが大きく息を吐き出すと、苛立った目を向けた。

「今さらそんなことを言い出して、いったいどうするつもりだい? 君はここへ別れ話をしに来たんだろう?」



 コールが持っていたグラスを静かにテーブルに置いた。ガラスがこすれ、カチリと小さな音をたてる。
 彼は落ち着き払っているように見えた。ぞくっと冷たいものを感じ、ケリーは我が身を守るように腕を交差させると、椅子から立ち上がった。そのまま数歩離れて、もう一度彼に向き直る。
 コールは無言で、彼女の動きを見ていた。

 ケリーは内心うめき声をあげていた。こんなにもぎりぎりのところに追いつめられて、やっと自分の本心がわかるなんて……。まるでしらけた笑い話のようだ。
 そう考えてから、再び気が付く。

 いいえ、違う。このことを――自分の気持の真実を――見出すためにこそ、わたしは今朝ロンドンから、ここまでやって来たのだ。
 そして、ようやくそれを悟った途端、今度は彼の方からはっきり『別れ』を告げられている……。
 まるで崖っぷち。なんという皮肉だろう。

 今日一日、彼とともに過ごした時間の中で、三年前一緒に暮らした二か月間以上に、彼のことを理解できたような気がした。そして、自分の中に今も紛れもなく存在する思いを、これ以上無視し続けることはできない。

 わたしは、コール・グラントを愛している。

 彼がどう思っているにせよ――たとえもう、他の女性を愛しているとしても――わたしは、離れていた年月も、変わらずずっと愛し続けていたのだ。
 だから、住む場所が変わっても、どんな人と出会っても、心はこの人から離れてどこにも行くことができなかった。わたしの人生には彼が必要だ。彼を失ってしまえば、前途には虚しい待ちぼうけの日々が、果てしなく残るばかりだ。
 取り返しもつかないくらい手後れになってから、その事実に気付くなんて……。

 それでも、今、自分がどんなに惨めになっているか、彼には知られたくなかった。愚かな自分に残された、最後のささやかなプライドだ。
 ひりひりする胸の痛みをこらえつつ、ケリーはようやく口を開いた。何の感情もこもらない声が彼に向って淡々と答えていた。

「……ええ、そうだったわね。ようやく意見が一致したと思っていいのかしら。ありがたいと思うわ。でも、だからこそ聞くのよ……。これでもう、わたしとあなたの人生が関わることは二度とないわ。あなたの人生から永遠に出て行く前に、あなたの……、風景画家『ジョン・グレイアム』の一ファンとして、どうしても教えてほしいの。そしてできることならもう一度、絵を描いてもらいたいと言ったら?」

「勝手に別れると言い張った上、今さら僕に絵を描けって? それはあまりにも身勝手すぎるんじゃないのか?」

 彼の口元に荒々しいほどの嘲笑が浮かんだ。ほとんど黒ずんだ瞳の奥で、激しい葛藤が渦巻いているような気がして、ケリーは驚いて彼に歩み寄った。

「だって……、あなたにとって、それが一番いい解決方法でしょう? あなただって、義務感から結婚したわたしなんかにいつまでも縛られているより、自由になって、アメリアさんのように、本当にあなたが必要としているパートナーを見つけた方がいいじゃない!」
「義務感から結婚? アメリアだって……? ちょっと待てよ……。まさか君は今までそんな風に考えていたのか? いったい誰がそんな馬鹿げた考えを君の頭に吹き込んだんだ!?」
「でも、事実でしょう? わたしは見たのよ! あの頃だって、わたしに隠れてしょっちゅう彼女と会ってたんじゃないの! わたしさえいなければ、もっと早く彼女と結婚できたはず……。それとも、もう彼女とも別れてしまったの? 確かにあの人が、B&Bで客の世話をするとは思えないものね……。あ、痛いっ、痛いわ!」

 ふいに、我慢も限界だとばかりに、コールが立ちあがって彼女の腕をきつく掴んだので、思わず小さく声を上げてしまった。
 彼の顔には、今初めて気付いたというような、激しい驚きと衝撃とが浮かんでいる。

「アメリアか? アメリアが君に、そんな馬鹿げた考えを吹き込んだんだな? 答えるんだ、ケリー。だから出て行ったのか?」
「……違ったの?」
「そんな口から出まかせを、自分の夫より信じたなんて……、大馬鹿だよ、君は!」

 目をそらして口ごもったケリーを見て、乱暴につぶやくなり、コールは掴んでいた腕をつき離した。抑えた低い声が呆れたように畳みかける。

「確かにあの頃、彼女がもっと深い関係を望んでいたのはわかっていたさ。だが、心から愛している妻がいるのに、どうして他の誰かを欲しいなんて思えるんだ? アメリアとは、純粋に仕事上の関係だった。描くのを辞めてからは、もう会ってもいないよ。それにしても……、よくもそこまで言えるもんだな。君の方こそ……」
 彼のやり場のない怒りが、さらに増し加わっていくようだった。二階に客がいなければ、もっと激しい言い争いになっていたかもしれない。だが、彼はまだかろうじて自分を抑えていた。
「十以上も年上の、独占欲の強い厄介な亭主から自由になりたくて、さっさと逃げ出したんじゃないか!」

 今度は、ケリーがはじかれたように顔を上げる番だった。

「まさか! あなた、わたしのことを今までそんな風に考えていたの?」

 ケリーもまた、思いもよらなかった夫の言葉に愕然としていた。
 心から愛している妻、ですって? それじゃ、いったい何のために、わたし達は……。
 あの日のアメリアの嫌な表情がまざまざと甦る。彼女がそんな風に自分達の間をめちゃくちゃに引っ掻き回して行ったのだろうか……。
 見つめ合う二人の中に、同じ疑惑が渦巻いたが、コールはとっさに口元をゆがめただけだった。

「違ったのかい?」


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12/06/15 更新