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『犬祭2』投稿作 銀のお題:「作中に犬は登場しないが、犬(もしくはその存在)を感じさせるもの」を使用







 ノラは、去年、庭の桜が散った後に、我が家にやって来た。
 父に連れられ、文字通り玄関先に突然振って湧いた金茶色の毛に黒い眼をした、凶暴そうな二本足の野良犬は、その日から、我が家の一番日当たりの良い部屋に居を構えるとんでも居候になった。


◇◆◇


「セールスは、断じてお断りします」
 そう声を荒げて、しつこく食い下がろうとするセールスマンの鼻先で、ぴしゃりと玄関を閉めてやる。さらにべーっと舌を出して「指でも挟め」と、呟いてみる。

 ああ、本当にいらついている証拠だ。だいたい父も父だ。短大を卒業したてのうら若い乙女が、今時こういう古くさい開放的なつくりの家にいるのは危ない、とは思わないのだろうか。同じような年季の入った隣近所の家は、とうの昔にリフォームしているというのに。
 そうぶつぶつこぼしながら、居間に戻ると、学校から帰ってきた後は毎日、夕食までぼさっとテレビを見ているノラに、恨めしそうな視線を投げる。
 こいつよりは、番犬役をしてくれるまっとうな犬の方が、よほど役に立つのではあるまいか。定時で終わる仕事の後、世のOL達は、いろいろと……。
 ノラと父の夕食の支度をしながら、つい不満がマグマのようにぐらぐらと、頭をもたげてくる。何度手抜きしてやろうと思ったかしれなかった。
 当の本人はテレビの前を指定席と決め込んでいるらしい。しつこいセールスマンに飼い主の娘がどんなに困っていようが、ワンとも吼えない役立たず。ありがたいことに、いまだ泥棒や曲者に入られたためしはないが、きっとそういう非常事態になっても、こいつは見て見ぬ振りで、狸寝入りを決め込んでいるだろう。
 文字通り、無駄飯食らいのナリだけはでかい馬鹿犬。下手にちょっかいをかければ、食わせてやってる恩も忘れ、本気でがぶりと食いつかれそうな気さえする。
 もっともそんな野良犬でも状況を見る知恵はあるらしく、家にいるときは無表情に居間に転がっているだけで、決して余計な手出しはしなかった。まぁ、わたしに手など出そうものなら、直ちに保護観察処分を解かれて少年院送致になるのだから、正真正銘のバカでもない限り、めったな振る舞いはしないだろうけど。


 それは、十七歳のノラとの奇妙な同居生活だった。
 ノラは、先の家裁の審判で、ある重要少年事件の幇助と判断されていた。結局、一年間の保護観察付き執行猶予処分を受け、一応自由の身になったものの、当の保護者からさえ見放されて行き場を失い、とうとう保護司だった父の関係で、我が家にたどり着いたのだ。



「あんたいつまで、そうしてるつもりよ」
 あまり刺激するなよ、との父の厳命にもかかわらず、二人だけの食事時には、これが恒例の一方的会話になった。だが、聞こえているのかいないのか、文字通り馬の耳、ならぬ、犬の耳に念仏状態。耳を貸そうともせず、ただひたすら、もくもくと出されたご飯に向かっている。まるで食事に命をかけている、というように、驚異の集中力でとにかくひたすら食べるのみ。
「あとで買い物に付き合ってよ」
 食事の後で一度、そう誘ってみたことがあった。するとノラはびくりとしたように、振り向いてじっとわたしを見返してきた。暗い陰のある、人を寄せ付けない、そのくせどこか人恋しさをたたえた黒い眼が、いつまでもじっとこちらを見つめている。その目は黒く、どこまでも深く底が知れない。
 ついにわたしの方がばつが悪くなり、視線をそらしてしまった。


◇◆◇


 奇妙に聞こえるかもしれないが、ただ黒いと思っていたそのノラの眼の中に、実は無数の色が溶け込んでいるのだと気付かされた出来事があった。それは、半年くらい前のある土曜日のことだった。

 その時、出かける用事もなかったわたしは、居間に座ってのんびりとテレビを見ていた。ノラは、少し離れたところで寝ていた。
 ふと、何気なく替えたチャンネルで、ちょうど一年前に起きた複数の少年達による少女殺人事件を再検証していた。
 わたしはぎょっとした。そのとき、寝ていたはずのノラがさっと身を起こし、慌てて再びチャンネルを切り替えようとしたわたしの手からリモコンを奪い取った。
 番組は続いていく。テレビのレポーターが、被害者の少女に対する同情と犯人の少年達への強い非難のこもった口調で、生々しくその事件を振り返っていく間、ノラもわたしもまるで凍りついたように見動き一つしなかった。
 ノラの顔には、相変わらず何の表情も浮かんでいない。たださっきより白くなった顔色と、ぽっかりと開いた眼窩からのぞく、やけにぎらぎらした黒い玉だけが、内面をありありと伝えていた。
 その眼の中に数分の一瞬間だけ、浮かんで消えたのは、愛惜を帯びたダークレッド、そして悲嘆のネイビーブルー、孤独なグレー。
 それから……。

 さらに無数の原色がノラの瞳の奥で交錯する光の洪水のように浮かび上がり、何かつかみ所のない形をとった様に見えた。その見えない象形はもう一度、数分の一瞬間だけ揺らめくと、かすんで、渦巻くようにもとの真っ黒な眼の中に溶け込んで、やがて再び、二度と物言わぬ世界へと沈み込んでいった。

 黒がこんなにも様々な色からできているなんて、そのときまでわたしは思ってもみなかった。

 そして……、次の瞬間、ノラの眼から、鉛のしずくが一滴ぽたりとこぼれ落ちた。


 黙って、そっとテレビを消した。
 部屋に漂う沈黙の中、掛け時計の針だけが無機質に、そして確実に時を刻み続ける。
 わたしは無言のまま、子供をあやすように、まだ凍りついている黒い頭を引き寄せると、ただぎゅっと抱き締めた。ノラの頭が当たっているわたしのシャツの胸元に、次第にしみが大きく広がり始める。
 声を殺して身を震わせる図体だけは大きなノラの中に、幼い頃から誰にもかまってもらえなかった、傷つきながらキャンキャン甲高い声をあげている迷子の傷だらけの子犬が見えた。

 いつまでも黙ったまま、その深い傷を庇い包むように、ただじっと抱き締めていた。


◇◆◇


 その日から、役立たずで凶暴そうだった野良犬は、少し役立つ不品行そうな野良犬に進化した。環境にも徐々に適応し始め、夕食の買い物にも荷物持ちでついてきてくれるようにさえなった。
 やがてその不品行な野良犬が少しずつ口を利きはじめ、ついには飼いならされた品行のよい犬にまで進化した頃。

 庭の桜のつぼみが、再びほころび始めていた……。



 こうして、去年庭の桜が散った後にやってきたノラは、今年、桜がまだ散る前に、満開の花の中に姿を消していった。
 黒くなった頭を幾度も幾度も下げながら。
 その眼に光る雫は、今は透明だった。そしてノラが行ってしまった後、わたしは自分の頬から伝う雫で、またブラウスが濡れているのに気付いた。
 長いこと我が家の一番日当たりのいい部屋を陣取っていたノラは、きれいさっぱりいなくなった。
 我が家に念願の平常と安寧が戻ったはずなのに、心にぽかっとあいた大きな穴は埋めようがない。父が出かけた後、部屋の片付けをしながら、わたしはなぜか嗚咽を止めることができなかった。



 そしてまた季節は巡っては去り、時々来るノラのメールによれば、社会に出て仕事の傍ら、罪滅ぼしのため、ボランティアなども熱心にしているという。
 そんなメールも、ついに途絶えがちになり、幾度目かの満開の桜が、風に舞って散りはじめた、そんな日曜日の午後……。
 玄関先から、不意に大きな声が聞こえた。

「ごめんください。お嬢さんはご在宅ですか」

 そう、我が家は、あれから結局まだリフォームしていないのだ。仕方なく出ていくと、昔ながらの玄関先に薄いグレーのビジネススーツをびしりと着こなし、銀縁眼鏡を掛けた、どこかのビジネスマンが立っている。
「セールスは断じてお断りします」
 反射的にそう答えた途端、失礼にもその男はいきなり噴き出した。
「まだそのセリフで、撃退してるんですか。進歩がまったくないですね」
 そうおかしそうに言う声には、たしかに聞き覚えがあった。よくよく見ると、銀縁眼鏡の奥で、いつか見た黒い眼が、柔らかく微笑んでいる。


 どうやら、あの懐かしい野良犬が、完璧に進化をとげて、我が家に帰ってきたらしかった……。


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