《 後 編 》
さて、それから少し経った頃のことである……。
エゲレス国高官主催の『夜会』なるものに、シズカお嬢さんを含む何某大使一家がそろって招待にあずかった。
その煌びやかさたるや、かの名高き鹿鳴館の舞踏会すら、思わず色褪せるほど。
それでも新調したばかりの薄紅色の“どれす”に身を包んだシズカお嬢さんは、やはり可憐で愛らしく、自覚はなくとも多くの若衆の目を引くには十分であった。
しかし、何しろ内気なる日本国の乙女である。とてもエゲレスのイモ達と踊る勇気も持ち合わさぬ。
ダンスを申し込まれるたびに首を振り、次第に気持も沈み込んでいった。ついに同行したことすら後悔しはじめるに及んで、父上母上は、大使令嬢が何たる様ぞと、ひどくご立腹の呈であった。
そのときふと、かの書生《タカヤナギ シゲヒト》が、少し離れた場所にいることに気付いた。黄色い髪の女人と、何やら談笑している。お嬢さんは切なげに目を伏せ、真っ赤になってそわそわし始めた。
だが、そこは初々しい乙女。自ら近付き話しかけるなど、夢にも及ばぬ風情である。
さても、これは一大事。大切なお嬢さんのため、ここはひと肌脱がねばなるまい。
かくて吾輩、誰も見ておらぬ隙に、籠からこっそり這い出した。しつこく書生と話している面妖な女人が、床まで引きずっている衣装の下に潜り込み、その女子の足首に体をすりっとすり付け、にゃおんと鳴いてみる。
その途端、エゲレスの女人はぎゃーっと叫んで文字通り飛び上がった。くだんの書生はドレスの下の吾輩を認め、不思議そうに顔を上げて周囲を見回した。
やがて困り果て、泣きそうな顔でこちらを見ていたシズカお嬢さんとばったり目が合う。
書生はにこやかな笑みを浮かべ、納得したようにうなずいた。どうやら向こうも覚えていたらしい。足元でミャーミャー鳴いていた吾輩を抱き上げると、笑顔でお嬢さんに近付いてきた。
その夜会が終わるや、お嬢さんはまたも吾輩に向かい、奴と踊ったてん末を事細かに語って聞かせ、著しく活気付いていた。
翌日、その書生が大使公邸を訪れ、お嬢さんに柘植の櫛なぞを手渡したので、乙女の心はまるで天にも昇らんばかりであった。ますます上昇気流に乗り、糸の切れた凧の如くふわふわと舞い上がる一方である。
この手の病につける薬はないと聞くが、かくも深刻な幣を生じさせるとは、吾輩、初めて直に見知った次第であった。
しかし……。人の世は、やはり沙羅双樹・・・ではなかった、諸行無常かもしれぬ。
女の一生も、またしかりである……。
◇◆◇
ある日、大使公邸に帰ってきた父何某が厳粛な顔でかようにのたまった。この何某氏、元来にこやかに笑ったことなど、果たしてあるのか、という面であることは、この際脇へ置いておく。
かの書生の経歴は真っ赤なうそ偽りである。本日、当のお偉方からさような留学書生はいないと断言され、これは怪しい、と、問い合わせようにも、すでに宿泊先もわからぬ始末であった。もしや間諜の類ならば断じて許しておけぬ、と息巻き、日本ならばひっとらえてくれるところだが、エゲレス国では致し方ない。今後奴に近付くこと、ユメユメまかりならぬと言い置いて、あとには茫然自失のシズカお嬢さんが、一人取り残された。
さあ、たまり切れぬのはお嬢さんである。その日から、食事もろくろく喉を通らぬ有様にて、ついに床に臥してしまった。青い目の医師が薦める薬を飲んでも、一向に効き目も現れぬ。
ついに医師は、重々しく、かような診断を下すにいたった。
「コノれでぃハ、『コイノヤマイ』デアリマスカラシテ、ソノオアイテヲオツレニナルノガ、イチバンノクスリカト ゾンジマス。コノママデハ、スイジャクスルバカリ。オイノチニ、カカワルヤモシレマセヌ」
聞くなり吾輩、寝台の下で飛び上がり、頭をしたたかぶつけてしまった。
左様なことがあってよいはずはない!
たとえ、お天道様が西から上ろうと、そればかりは許されぬ。
よろよろと寝台に這い上がると、お嬢さんは、吾輩にやせた手を伸ばした。
タマや、と、お嬢さんは言う。
「あの御方は絶対にそんな人ではないと、信じているの。でもどうして、あれから会いに来てもくれないのかしら」
だが母上も父何某も、難しく厳しい顔をして黙り込むばかりである。呼びに行こうにも第一、どこの誰ともわからぬ相手では話にもならぬ、と、ヒソヒソ声が聞こえてきた。
だが、議論なぞ、している場合であろうか?
なぜ、すぐさまその《偽書生タカヤナギ シゲヒト》を探しに行かぬのか? 名前の前に『偽』がつくだけで待遇がかくも異なるとは、ヒトの世はやはり複雑怪奇である。
吾輩は憤慨し、眼下にあった母上の白い足袋にかじりついたが、あえなく振り落とされた。
かくなる上は……、吾輩が行かねばならぬ!
他ならぬ、シズカお嬢さんの御為である。
やおら吾輩、寝台の傍らに置いてあった柘植の櫛を口にしっかりくわえ込み、小間使いの目を盗んで、窓から外へ飛び出した。
かの書生の居所を探し出すのである。万が一、かの偽書生が真に怪しき間諜の類であるならば、お嬢さんはあきらめた方がよいのだからして、踏ん切りもつけられよう。
……とはいえ、はて、いったいどうすればよいのであろうか?
途方に暮れ、しばらく大使公邸の庭をうろついていると、館より出立しようとしている馬車が見えた。とっさに下の出っぱりに這いのぼる。どこへいくとも知れぬ馬車ではあるが、どうぜ吾輩とて行くべき先すらわからぬ。とにかく市内に出ればよい。もちろん口にはしっかりと、櫛をくわえたままである。
かくて吾輩、齢一歳弱にして初めてただ一匹のみにて大使公館を後にし、巨大な世紀はじめの倫敦の街に出ていった。
それは年も明けた一月のこと。
倫敦は冷たく深い霧の中に、厳然とそびえ立っていた。
◇◆◇
そもそもかように広い倫敦市中を、吾輩の貧弱な足で歩き回るなぞ、到底及びもつかぬ所業である。
だが馬車とは、真にありがたい代物であった。もそもそと乗り込むだけで、ひずめの景気のよい音と共に、すばらしい速度で走り出す。吾輩、もう二度と、馬を馬鹿にはすまい。
かくて吾輩は大使公邸から、某日本人高官邸、そして次はエゲレス国の貴族邸にと、短い時間で方々を馳せ巡ることができた。乗る馬車さえ間違わねば、関係した場所へ行きつくのにこれほど早いものはない。馬車とは、真に偉大なる乗り物である。
しかし、万が一にも放り出されては命の保障はされぬから、確実にもぐりこめるときを待った。どこに行くのかもわからぬ。ひたすらに猫の野生の勘と、運が頼りの大勝負であった。
そうして、あっという間に数日が過ぎていった。
馬のえさなぞまずくて食えぬので、その日も着いた屋敷の厨房に紛れ込み、女中の目を盗んで残飯をあさっていた。情けなくも、結構うまいとすら感じる。毛並みはすっかり汚れ果て、せっかくの器量も台無し。世も末である。それでも、柘植の櫛だけは、まだしっかりと持ち運んでおった。
そのとき、厨房に入ってきた女中の声がした。もちろんエゲレス人であり、エゲレス国の言葉であるから、聞き流していると、かような言葉が聞こえてきた。
『あの日本の三条公爵家のシゲヒト若様、最近ご様子がおかしいわね。奥方様がご心配なすっていらしたわ。お部屋に閉じこもってばかりで、どうなさったのかしらって』
他の文句は一切わからなかったが、《シゲヒト》と言う一言だけは、聞き取れた。
途端に、吾輩は反射的に顔を振り向け聞き耳を立てた。
何と何と、それではかの《シゲヒト》は、この屋敷内にいるのであろうか?
吾輩は櫛をしっかりくわえ直すと、館の通路へ一目散に走り出した。
とはいえ、たちまち挫折しそうになった。
何とまあ、だだっ広い屋敷であろうか。玄関からして、どこの公会堂かと思うほどである。さても巨大な迷路の如き館に住まって、よくも気がふれぬものだ。
闇雲に廊下を駆け回り、幾度目かに赤いじゅうたんの敷き詰められた階段を駆け下りたとき、探し求めていた紳士にばったり出くわした。
《シゲヒト!》
もし吾輩が叫べるものならば、声の限りに叫んでいたであろう。
当のシゲヒトは不思議そうに、突然駆け寄り足にまつわりついてきた吾輩を眺めていた。
だが、屈み込んだ奴の目の前に、かの柘植の櫛をぽとりと落とした途端、はっとしたように真剣な表情になった。
「静香さんか? 彼女に何かあったのかい? そうなんだね」
吾輩が懸命にシゲヒトのズボンのすそをくわえて引っ張ると、彼は吾輩を両手に抱き上げ、何事か決意したようにすっくと立ち上がった。
「出かける。すぐに支度を」
三条公爵家の家紋入りの馬車が、大使公邸の玄関先に乗りつけられたときの上へ下への大騒動は、まことに痛快愉快であった。
三条家のお目付け役と共に、吾輩を抱えて馬車から降り立ったシゲヒトに、大使何某も奥方もただただ恐縮し恐れ入っている。あるいはこうなるとわかっていたゆえ、最初に真実を告げなかったのかもしれぬ。
同じ人間であるのに、書生から偽書生、そして公爵家御曹司と前につく肩書きが変わるだけで、周囲の対応は面白いほどコロリと変わる。まこと人間社会とは珍妙キテレツである。
シズカお嬢さんの病は、その後めきめきと回復し、毎日訪れるシゲヒトと共に、いたく幸福そうに過ごしている……。
◇◆◇
そうして吾輩は……。
今日ものんびり、陽だまりの“さんるーむ”にて昼寝する。
心地よい大きな座布団の上で丸くなり、ぬくぬくと世に悩みもなし。
死んで太平を得ると、かの文士猫は申したそうな。
しかし、これもまたこの世の太平、あるいはまさに、極楽浄土かもしれぬ……。
〜 完 〜