next




PAGE 1


 ゆるやかなピアノ曲が急に途絶えた。照明が落とされ、マスターが片付けを始めた。
 窓から星くずのような東京の夜景が見渡せる、高層ホテルのスカイラウンジ。
 ムードライトが照らす中、いつの間にか客は、わたしと樹《いつき》さん、二人だけになっていた。

 もう真夜中のようだ……。

 目の前に座ったスーツ姿の樹さんは、煙草を手にしたままじっと動かない。さっきのわたしの言葉が、楽しかった夜に、どうしようもないほど亀裂をつくってしまった。

 でも、詳しい事情は話せない。
 話してもどうにもならない。この人が困るだけ……。

 別に何かを期待したわけじゃない。ただ、彼との最後の夜を楽しく過ごせればそれでよかった。
 今夜、わたし達の長くて短かった春の日はジ・エンドを迎える。


*** *** ***



 わたしの家は、曽祖父の代から不動産会社を経営している。オフィスビルの建設や投資用マンション分譲事業を営み、これまではそれなりにやっていた。
 わたしは東京郊外の家に住み、二代目社長の祖父と副社長の父、母、お手伝いさんに囲まれて育った。
 ところが、祖父が亡くなった後、日本も世界も経済状況が激しく悪化した。地方で再開発したオフィスビルの分譲が完全に暗礁に乗り上げてしまい、会社は危機に陥った。
 事業の負債額は数十億にも上っていたらしい。父から現状を知らされ、わたしと母は青ざめた。
 立て直しには多額の融資が必要だが、会社が信用不良状態の今、正規ルートでの資金調達は難しい。
 救済手段は唯一つ、一人娘であるわたしが、取引銀行頭取の息子との縁談を受けることだ、と父は言うのだ。
「お前より十歳年上だが、浮いた噂ひとつない。お前を大事にしてくれそうじゃないかね」
 差し出された写真には、神経質そうなやせた男性が写っていた。

 わたしの中で、十六歳の時から育んできた夢が、大きな音をたてて崩れていくようだった。
「……選択の余地なんてないんでしょ?」
 何とか明るく見せたいのに、絞り出すような声しか出なかった。母も無言のままだ。
「この縁談をお受けしなかったら、融資が受けられなくて、会社が潰れちゃうのよね?」
「そう……だな」
 父がつぶやくように答える。
「だったら、わたしに選択権ってある?」

 自分にそっと問いかけてみる。

 こういうとき、どうしたらいいの?
 絶対イヤ、と突っぱねて、自分の人生をあくまで生きる?

 でもわたしは、そんな強さを持ち合わせていなかった。どうしてもやりたいっていう事も、特になかったから。
 そう、たった一つをのぞいては……。

 しばらくして、わたしは父に微笑みかけた。
「わかったわ、お見合いします」
「すまんなぁ、美里《みさと》……」
 何度も手を合わせる父に、笑顔でうなずいた。疲れ切った父の顔に涙が一筋伝い、胸がきゅっと痛くなる。


 五日後の日曜日。
 振袖を着せられたわたしは、都内の料亭で、両親と向こうのご両親に囲まれて、そのお坊ちゃまに会っていた。
 たとえ銀行の看板がスーツを着て座っていても、微笑みながら会話したに違いない。相手はお堅い雰囲気をのぞけばそう悪い人でもなさそうで、親も安心したらしかった。
「これもご縁ですわね」
「良縁ですよ」
 などと勝手に盛り上がり、結納の日取りまでどんどん決まっていく。

 結婚って、こういうものなんだな……。
 十九歳になったばかりのわたしは、苦い現実をかみ締めながら、悟ったように心の中でつぶやいていた。


 その晩、両親より早く帰宅したわたしは、リビングルームのテーブルに、小箱がおいてあるのを見つけた。
 これ……もしかしてプレゼント? 樹さんから? 
 差出人を調べてみる。やっぱりだ。
 添えられたカードを開くと、お祝いメッセージが書かれていた。

『美里、やっと十九だな。遅くなったけど、誕生日おめでとう   榊原 樹 』

 わたしはカードにそっとキスして、バッグにしまい込んだ。
 プレゼントはすぐには開けず、庭が見えるサンルームに入って行く。
 そこはわたしが高校生だった頃、家庭教師をしてくれた樹さんとの思い出の詰まった場所だった。

 馬鹿なわたし……。未練がましいったら。
 もう変えられないのに。
 たとえわたしがずっと、彼のお嫁さんになりたかったとしても……。


*** *** ***



 高校一年の夏休み、わたしと樹さんは出会った。
 八月の蒸し暑い夜更け、珍しく酒に酔った祖父が、見知らぬ青年に抱きかかえられるようにして帰ってきた。母に続いておそるおそる顔を覗かせたわたしを見るなり、祖父はくしゃくしゃの笑顔になった。
 こっちへ来いと手招きし、酒の勢いに任せて、だみ声を張り上げ始める。

「美里、見ろ、おじいちゃんがお前のために見つけてやった結婚相手だぞー。今はうちの会社でアルバイトなぞしとるがな。驚くなよ、なんと、天下の九重《ここのえ》グループの人間だ。どうだー? いい男だろうが? 頭も切れる! K大生だ! ……樹君、どうだ? うちの美里は美人だろうがー」
「お、おじいちゃんってば! 酔っぱらっちゃって、信じられない! ご迷惑かけてるってば!」
 その若い男性も慌てたように祖父をゆさぶった。
「ちょっと、社長! 何言ってるんですか? ……ったく、困ったな」
 そうつぶやくと、顔を上げてわたしに目を向けた。

 わ、かっこいい!

 目が合った途端、胸の奥がずきんっと収縮したような気がした。
 すらっとした長身に甘いマスク。少し長めの髪が額にさらりとかかり、その陰から鋭い黒い目が覗いている。
 開襟シャツとジーンズも似合ってるけど、もっとキメたらメンズ・ファッション雑誌に載ってもおかしくない。

 先に目をそらしたのは彼の方だった。
 まじまじと見ていたことに気付き、わたしは決まり悪くなって「す、すみませんっ」と頭を下げた。
 つられて、彼もちょっとお辞儀を返してくれた。でも、目のやり場に困った、というように、視線をさまよわせている。
 あっ、わたしのこの格好!
 思わず頬が熱くなった。色気のないポニーテールに、猫模様のロングTシャツ。襟は肩までずり落ちている。腿のあたりから素足が丸見えだ。

 駆け寄った母がソファーに落ち着かせるや、祖父は大の字にもたれかかって、いびきをかき始めた。
「仕方ないわね。もうマツ乃さんも帰ってしまったし……。あなた、ちょっとごめんなさい。お部屋にお連れするから、手伝っていただける? 美里、お茶のお支度をお願いね」
 彼の手を借りて、母が祖父を運んでいく。わたしは大急ぎで部屋に戻ると、カットソーとスカートに着替えた。
 冷茶とお菓子をリビングのテーブルにセットしながら、一生懸命考えをめぐらせる。

 あの人をこのまま帰したくない!
 何か、もっとよく知り合う方法はないかしら?

 やっと落ち着くと、母とわたしは樹さんを囲んでお茶を勧めた。ソファーに座っている彼は、なんだか可愛く見えた。
 母があれこれ尋ね始めたので、隣に座って一緒に聞いた。彼、榊原樹さんは今二十二歳。K大経済学部の四年生だという。うちの会社でアルバイト・スタッフをしているそうだ。
 就活はもう終わったのかと聞くと、
「ええ、この春に一応。それでアルバイトでもしようと思いまして」
 母の目が感心したように光った。
「それで、あなた、あの九重ホールディングスの関係の方なの?」
「それは……」
 苦笑しながら彼は言った。
「僕の親戚が、たまたま中に入っているだけです。僕とは何の関係もないですから」
「あら、もったいないわ!」 母が急に声を高める。
「九重といえば日本を代表する企業の一つじゃないですか。なら、あなたも九重に就職なさればよかったのに」
「………」
「もういいでしょ、お母さん! 何あれこれ聞いてるのよ」
 わたしは急いでさえぎった。彼が目に見えて辟易《へきえき》しているのがわかったからだ。ちらっとこちらを見て、ありがとうと言うように、微笑みかけてくれたので嬉しくなる。

 そのとき、急にひらめいた。母と樹さんを交互に見比べて言う。
「ねぇ、お母さん! もしよかったら、榊原さんに、わたしの家庭教師になってもらえない?」
 えっ? と、二人は同時に見返してきた。めげずに懸命に説得する。
「わたしの数学と英語、心許ないでしょ? おじいちゃんの紹介なら間違いないし」
「そう言えば、そうね」
 母もうなずいてくれる。
「どっちみち、誰かにお願いしなきゃと思っていたの。あなた、アルバイトにどうかしら?」
 彼はびっくりしたように少し考えていたが、別にいいですよ、とOKしてくれた。
 その夜は、興奮のあまり、なかなか眠れなかったのを覚えている……。


nextTopHome

----------------------------------------------------------
12/11/19 更新
再掲のご挨拶など、ブログ にて