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 それから、わたしは文字通り、樹さんに夢中になった。
 週二回、このサンルームでのお勉強タイムが待ちきれなかったほど……。
 夏休みが終わると、彼は会社のバイトをやめたらしい。この展開をわたしの次に喜んでいるのは祖父だった。時々わたし達二人の進展具合を調べるように覗きにくる。

「まーったく、おじいちゃんたら、馬鹿なことばっかり言うの、やめてよね! 何もないってば!」
 祖父から「その後、どうかな?」と問われるたびに、わたしは不機嫌に答えていた。そのくせ心の中では目いっぱい『何か』を期待している。
 彼は、いつもちょっと困ったようにこちらを見て、微笑むだけだった。

 友達から色々アドバイスをもらって、わたしなりに攻略の対策も練ってみた。
 彼が来る日は少しだけメイクし、薄い色のルージュを引いてまつげにちょっとラメの入ったマスカラをつけたり、かなり露出の高い服をコーディネイトする。もちろんパフュームも忘れない。
 そして、授業中はできるだけ彼のそばに座り、身体が触れ合うところまでいけば大成功!
 後は、一生懸命に話を聞いた。わからないところを尋ねる振りをして、彼の顔を好きなだけ眺めたり。
 樹さんの最初の印象は、洗練されたハイソな家の出、という感じだったけれど、実は落ち着いたシンプルな趣味の人だとわかってくる。ちょっとぶっきらぼうな話し方も、外見とは対照的で、ますます好きになっていった。

 時々、じっと見上げているわたしと目が合い、彼が苦笑した。
「そんな大きな目で穴があくほど見るなって。本当にあいたらどうする?」
 下手な冗談を飛ばしながら、ほら、次は、とまた問題を示してくる。

 授業中は携帯を切っていたけれど、時々「悪い、ちょっとだけな」って言いながら、誰か――おそらくは女の人――と話してるのを見ると、やっぱりやけた。
 樹さん、『彼女』いるよね、もちろん……。
 怖くて尋ねる勇気もなかったけど、電話の後は授業にひびくほど気持がへこんだ。それに気付いたのか、樹さんが、もうしないからな、と頭を撫でてくれる。
 まるで小さな女の子にするみたい。わたしって全然対象外なんだな、と、さらにへこんでしまう。
 彼の携帯番号を知っていて、いつでも電話やメールできることが、すごい秘密を知っているような気がした。

 お家に遊びに行きたい、とか、ドライブに連れてって、と、何度も甘えるようにお願いしてみた。でも、彼はただ微笑うだけだった。
「お子様はお子様同士の方がいいだろ? その方が楽しめるって」
 どうせ『お子様』よね……。
 そのたびにがっかりして、わたしは膝を抱えてぷっと頬を膨らませた……。


*** *** ***



 これなら第一志望の大学に進学できるかも、というレベルに達したのは高二の秋だった。
 樹さんはとっくに大学を卒業し社会人になっていたけれど、土日を利用してまだ家庭教師を続けてくれていた。
 相変わらず、彼の一挙一動にへこんだり盛り返したりしながら、時間だけが過ぎていく。

 三学期半ば、ヴァレンタイン・ディの数日前。樹さんが来る土曜日、わたしは午後からキッチンに立てこもり、チョコレートケーキを作った。

「これ、美里が作ってくれたの? 俺に?」
「ちょ、ちょっと見た目は悪いけど、味はまぁまぁだから!」
 ティータイムに言い訳しながら紅茶と一緒に出すと、彼は嬉しそうに笑ってくれた。
 どきどきと見守るわたしの前で、おいしそうに食べ始めたので、思わずその顔を携帯で撮る。えへっ、とVサインしたら、こいつー、と言いながら、お茶目なポーズまでとってくれた。
「うまかった、サンキューな」
 ほっとして、わたしは照れ隠しにしゃべり始めた。
「チョコケーキは初めてだったから、レシピ見ながら一生懸命作ったの。次はマーブルケーキとフルーツケーキ、どっちがいい? 来月、頑張ってまた作るね!」

 青天の霹靂はその瞬間に起こった。
 そっと身をかがめた彼が、わたしの唇に温かい唇を押し当ててきたのだ。

 えっ……、ちょっと待って?
 今、何が起こったの……?

 ぽかんと目の前の樹さんを見上げると、不思議な視線がわたしを捉えた。いつもの大人ぶった目とはどこか違う。初めて見るその表情に、急に心臓が暴走し始める。
「……お礼」
 ぽつんとこれだけ言うと、硬直しているわたしの肩をポンと叩いた。
「次までに、続きを二十ページやっておくこと」
 まるで何事もなかったようにサンルームを出て行く彼を、わたしは黙って見送った。
 扉が閉まると、唇に手を当て、へなへなとその場に座り込む。

『お礼』。
 ケーキの……。
 そう、彼にはさっきのことなんか、何でもない。本当にそれだけの意味。
 でもわたしにとっては……。

 友達に笑われたってかまわない。
 それは記念すべきファーストキス、だった。


*** *** ***



 その日から一か月後、衝撃は突然訪れた。
 ホワイト・ディの可愛いキャンディボックスを持って訪れた樹さんが、今日で家庭教師を終わりにしたいと、親の前で突然言い出したのだ。
 仕事が忙しくなり、時間的にどうしても難しくなったらしい。

 その日、わたしの頭には数学も英語もまったく入らなかった。泣くまいとしても、涙がぼろぼろこぼれてくる。
 樹さんがとうとう問題集を投げ出した。いつになく優しい声で、色々これからのことを話しかけてくれる。でも彼のいない『これから』なんか、考えたくもなかった。
「美里……、お前がもう少し……」
 ためらうように言いかけた彼が途中で、ああ、もう、って顔をして、ちょっと乱暴にわたしを抱き寄せた。
 驚いて涙が止まり、息まで止めて彼を見上げると、ぽつっと声が降ってきた。
「お前もそのうち、いい彼氏ができるさ。こんなままごとみたいな恋じゃなくて、ちゃんと本物の恋をしろよ」
「な、何よ! オジサンみたいなこと言って……。おままごとなんかじゃ……ないもん!」
 また泣いてしまった。樹さんは困ったように微笑み、わたしをあやすように抱いてくれる。
 そんな彼の胸を泣きながら叩いて、怒ってみせるしかできなかったわたしは、やっぱり子供だったと思う……。

 彼にもう会えない!

 そんなの、絶対に我慢できなかった。三月末の休日、わたしはとうとう行動を起こした。みんなが言うように、思いをちゃんと告白してみよう!
 夕方、電話で在宅を確かめると、彼のマンションに突撃していった。



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12/11/24 更新
素材提供 : アトリエ夏夢色