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「……聞いてもらいたい話? 突然、思いつめた顔してどうした?」

 樹さんは、わたしの不意打ち訪問にびっくりした顔でドアを開けてくれた。家庭教師になってもらって以来初めてだ。
 白を基調にしたきれいな部屋だった。日当たりのよさそうな南向きの窓辺には、大きなグリーンの鉢植えが置かれている。デスクのノートPCは点いたまま。本棚には、経済雑誌から専門書、小説の文庫までが雑多に並んでいた。
 大型液晶テレビの傍に、くつろげそうなリラックスチェア。背もたれにジャケットとシャツが重ねて引っ掛けてあるのがちょっと笑えた。ここで映画を見たりするのかな。

 薦《すす》められたクッションに座ると、わたしはいつもより一オクターブ高い声で話しかけた。
「シ、シンプルだけど、素敵なお部屋ね」
「そうか? みんな、味気も素っ気もない部屋だって言うけどな」
「そんなことない! それにわたし、男の人のお部屋ってもっと散らかってると思ってたの。もっと色々と……」
「イロイロと、何を想像してたわけ?」
 赤くなったわたしに、彼がにやにやしながら応える。
「そんな奴も多いけどな。みんなじゃないさ」

 コーヒーを入れている樹さんからは、完全に大人の余裕が感じられた。ミニスカートのすそを引っ張り、わたしは背筋を伸ばした。もっと、大人っぽくしなくっちゃ。

「いきなり来て、ごめんなさい。お仕事中だった?」
 持ってきたマーブルケーキをそっと差し出しながら尋ねる。
「いや、別に急ぎじゃないから……」
 ローテーブルに二つのマグカップとわたしのケーキを置くと、樹さんはわたしの前に胡坐《あぐら》をかいて座った。

「かてきょーの件なら、いくら言っても無理だぞ。実を言うと、去年からかなり厳しかったんだ、スケジュール的に」
 思わずため息が漏れてしまう。やっぱり……。生徒としてしか見てくれていないんだな。でも、今日こそは言うと決めていた。膝の上でぐっと両手を握り締め、わたしは挫けないうちに口を開いた。

「違うの! わたしの気持を聞いて欲しくて……、だから来たの。わたし、樹さんのこと、初めて会ったときからずっと大好きだったの。お願いっ、黙って聞いて!」

 目を細め、即座に何か言いかけた彼を無理に押しとどめると、わたしは切羽詰った口調で話した。
 一目で好きになったこと。家庭教師になってもらえたこの一年半、わたしがどんなに幸せだったか、樹さんしか見えなかったか……。
 きっと暑苦しい奴、と思われているだろう。でも言ってしまいたかった。そうすればすっきりするし、いつかきっとあきらめもつく。

 意外にも、彼は真剣にわたしの言葉を聞いてくれた。
 一度口にすると、次から次へと思いが溢れてくる。とうとう涙までぽろぽろとこぼれ出した。やだ、泣き落としって最低なのに……。
 慌てて目元をぬぐったとき、ふいに彼が動いた。最後の勉強の日みたいに、わたしの身体が彼の両腕に包み込まれる。
 びっくりして固まってしまった。あの日より強く抱き締められている状況が信じられず、そのままじっとしていた。
 おそるおそる顔を上げると、ばちっと目が合った。慌てて視線を逸らせようとしたけれど、もっと覗きこまれてしまう。

「参った。ほんっとストレートだな、お前って……」
 ちょっと困ったように微笑みながら、またぽろっとこぼれた涙をぬぐってくれる。
「泣くなよ。馬鹿だなぁ、美里は……」
 その声は、身体が震え出すほど優しかった。
「俺が、お前の気持に全然気付いてないって、本気で思ってた?」
 あ、やっぱり……? そうよね、誰が見てもわかるよね。
 今度は恥ずかしくなった。答えることもできず俯こうとしたのに、わたしの顔を持ち上げる指に力がこもっただけ。
 わたしの心臓は今にも飛び出しそうなほど鳴っていた。やがて、セーター越しに胸のふくらみが彼のシャツに強く押しつけられ、顔が近づいてきた。
 びくっとしたのが伝わったのか、動くな、というように頭を押さえられてしまう。彼の唇は、幾度か試すようにわたしの唇をなぞった後、しっかり覆い尽くした。

 わたし、樹さんとキスしてるんだ、今……。
 うっとりしているうちに、熱くて弾力性のあるものが、閉じたわたしの唇をこじ開けるように入ってきた。馴染みのない感触に口いっぱい占領され、全身が激しく突っ張る。
 思わず目を見開いて、うめいた途端、ぐっと押し戻されてしまった。

 馬鹿な美里……。
 キスもできないお子様だって、自分で証明しちゃった……。

 がっくり俯いた途端、飲めよ、と冷めかかったミルクコーヒーが目の前に差し出された。まだ温もりが残るマグを両手で包みこむ。
 飲みながら黙って向き合っていると、彼がぽつっと言い出した。

「……わかったと思うけど、俺とお前がお付き合いって、現実的に厳しそうかな、と思うわけ。まだちょっとな……。それに俺、海外出張が増えるんだ。この春から」
「えっ? どこかへ行っちゃうの? どこに?」
 お付き合い云々の言葉も、最後の衝撃にかき消されてしまった。ぎょっとして顔を上げ、身を乗り出すと、彼がふっと笑う。
「東南アジアの方かな、とりあえず……。二、三か月はザラに消えてると思う。年に半分くらい向こうに行ってるかもしれないし」
「でも、それじゃ、彼女さんは? どうするの?」
 怪訝な顔をした樹さんに、ほら、勉強中によく電話してた人、彼女さんでしょ? と説明する。
 途端に彼は、げほげほとコーヒーにむせてしまった。
「お前なぁ、人に思い出したくないこと、思い出させるなよ……」
 どういうこと? さらに突っ込もうとすると、頭をこつん、とこずかれた。
「振られたの、俺。彼女、もっといい男が見つかったそうで」
「嘘! 樹さんを振る人なんているの? 信じられない!」
 大声で驚くと、今度こそ爆笑されてしまった。もう一度優しく抱き寄せてくれる。
「そういうこと言ってくれるのは美里だけかもな。ま、というわけで、お付き合いは置いといて……。たまに会うか? これからも?」
「え、いいの?」
「時間がある時だけだぞ? 月一回も無理かもしれない。お前だって、これから受験本番なんだし」
「二か月に一回でも三か月に一回でも、絶対文句言わないから! これからも会ってくれる? 本当に?」
「お前がよければ、な」
「いいに決まってる! わーい、嬉しいー!」


 信じられない展開になった。これ、夢じゃないよね? と、わたしは頬をつねる代わりに、目の前でわたしの顔を覗き込んでいる樹さんに抱きついてしまった。地獄の後で天国を見るとはこのことだ。
 それから、レストランに行って二人で食事をした。もっと大人っぽい服を着てくればよかった、と激しく後悔したけど、とても楽しかった。
 車で送ってくれた樹さんが、別れ際、カーウィンドウを下げてこう言った。
「俺がいなくても、成績下げるなよ。今度会うときは、模試の結果を持って来ること」
 あー、そうですか……。
 わざとげんなりした顔で「もう、いいから!」と返すと、彼はにやっと笑って、じゃあな、とUターンして去っていく。
 ぼーっとしたまま、わたしは家に入った。何だか、夢の中にいるような気がする。

 それからしばらくは、幸せではじけそうだった。「一気に春だねぇ」と友達からあきれられたほど……。
 だけど、現実はやっぱり甘くなかった。



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12/11/28 更新