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PAGE 5


 翌日、わたしは気合を入れてドレスアップした。アイボリーのセーターとお気に入りのミニワンピースを組み合わせ、襟元と袖口にファーの付いたショートコートを羽織る。
 会えなかった間に伸ばした髪をふわりと結い、やっと板についたやわらかいメイクでフェミニンにまとめてみた。
 ルビーのペンダントは返すことにした。やっぱり気楽にもらえる物じゃないし……。
 うん、こんなものよね。
 鏡の自分に満足すると、母に友達と約束があるから遅くなる、と言って家を出た。


 約束の八時半になっても、樹さんは来なかった。
 自動ドアが開くたびに違う人で悲しくなる。来れなくなったのなら、電話くらいはくれるよね……。
 さすがに携帯を取り上げたとき、またドアが開いた。彼だ!
 わたしの視界がたちまち曇ってきた。スーツの上に無造作にコートを引っ掛けた樹さんは、焦ったように店内を見回している。わたしに気付くと、まぶしいほどの笑顔になった。
「悪い、道が混んでてさ。すっげー遅刻だな……。腹減ってるだろ?」
 それでも急いで来てくれたんだ。向かいに座ると彼はウェイターにコートを渡し、すぐ注文してくれた。


 わたし達は少しの間、黙って見つめ合っていた。
 七か月ぶりの樹さんは、ますます素敵になった気がする。チャコールグレーの、おそらくオーダーメイドのスーツがとても似合う男性に……。
 わたしはどう映っているのかな? まだお子様のままかしら?
 ちょっと心配になった時、彼の瞳に満足そうな輝きが見えた。もう十分、と思い直す。
「お帰りなさい。お仕事、お疲れ様でした!」
 会ったら真っ先に言おうと決めていた言葉。白い歯を見せて微笑った彼は、いきなりスーツのポケットからバラの花のトッピングのついたきれいな小箱を取り出すと、わたしの前にぽんと置いた。
「お前に、土産その二」
 はしゃいだ声を上げてパッケージを開こうとしたところで、止められた。
「土産その一は? なんで今日してこなかった?」
 それがルビーのペンダントのことだとわかるまでに、少し時間がかかった。
「あれはその……、持ってきてるけど、バッグの中」
「バッグにあったって仕方ないだろ? 出せよ、付けてやるから」
 呆れ顔で促される。引く気がないとわかると、わたしは恐る恐る箱を取り出した。
 樹さんが金鎖を留めてくれている間、首筋に触れる指先とコロンのかすかな香りに、一人どきどきしていた。

「へ、変じゃない?」
 じっと見ていた彼がOKというそぶりをしたので、慌てて言い返す。
「……というか、駄目よ! こんな高いモノ、軽々しく人にあげちゃ駄目だってば!」
「なんで? お前に買ってきたんだぞ?」
 だって、期待してしまうじゃない……。
 切ない抗議を無視して、彼は二つ目も見てみろと促す。開いてみると、今度はアロマオイルのしゃれた小瓶が出てきた。
 いい夢が見られそう。喜んでいるうちに、最初のサラダが運ばれてくる。
 食事をしながら、わたしはいつもより陽気に、彼のアメリカ話を聞いていた。


*** *** ***


 そして今。
 夢の夜の総仕上げのように、東京を見下ろすスカイラウンジで、樹さんと並んで街の灯を眺めている。
 食事の後、静かな場所で話したいことがある、と言ったら、ここへ連れてきてくれた。
 こういう所に二人きりで来るのは初めてだ。

 急に無口になったわたしに、彼が軽いカクテルを薦めてくれる。
「それじゃまず、わたし達の久しぶりの再会に乾杯する?」
 無理やり陽気にグラスを取り上げると彼もそうする。カチリとかすかに触れ合わせ、カクテルを一口含んだ。甘くてどこかほろ苦い。最後の夜にぴったりだ。

「わたし達、初めて会ってから、どれくらい経つんだっけ?」
 一生懸命、明るく彼を見上げた。もちろん昨日のことのように覚えているけれど、彼の口から言って欲しかった。
「急に何を言い出すかと思えば……。もう三年以上経っただろ? 長かったようで、あっという間だったな」
 忘れたのかよ、相変わらず頭悪い奴……。こつんと頭をこずかれ、どうせ、F女子大ですよー、K大には遠く及びませんから と舌を出す。
「そうそう。あの時、いきなり酔っ払ったおじいちゃんに呼ばれて……」
「お子様だったもんなぁ、お前……。中学生にしか見えなかったぞ」
「悪かったわね!」笑いながら、ちょっと膨れて言い返す。
「どーせ胸もヒップもまっ平らだったわよ! こっちこそ、何このオジサン……って思ったんだから!」
「そのオジサンにずっと、しがみつくようにぶらさがってたのは、どこの誰でしたっけ?」
「だっ、誰がぶらさがっ……」
「それに、まっ平らは今もそう改善されたようには見えないけど?」

 にらむわたしに負けず、嫌味っぽく言い返してくると、彼はわざとらしくわたしの胸元に視線を這わせた。カッと頬が火照る。
 確かに、男性好みの体型には程遠いけど、今はそれなりに出てるところは出ているんだから!

「ひどーい、じゃ、試しに触ってみる?」
 冗談を逆手にとって、わたしは甘えるようにすり寄ってみた。カクテルが効いてきたのか、行動が大胆になってくる。
 ネクタイに指を絡ませ、上目遣いに見上げると、誘惑するように舌先で自分の唇をちらっと舐めた。
 樹さんの表情が変わった。わたしの顎《あご》を片手で持ち上げ、じっと見下ろす目が急に翳《かげ》ってくる。

 自分で始めたことなのに、どぎまぎした。慌てて彼の手を払いのけた拍子に、テーブルの水のグラスをひっくり返してしまった。
「きゃっ!」
 小さく叫んで立ち上がった。服は無事だったものの、ムードが台無しだ。
 焦って謝るわたしの前で、マスターが手際よく片付け、笑顔で新しいグラスに代えてくれる。樹さんは声を殺して笑っていた。
「やっと大人になったかと思ったら、まだまだお子様だな。まぁ、そうしょげるなって」
 席が元通り落ち着くと、彼はもう一度グラスを掲げた。
「美里の十九のバースディに、乾杯」



 そのまま、取り留めのない会話が続いた。
 そろそろ話さなきゃ……。周りの人達が帰り始めると、さすがに焦ってきた。今、もう行こう、と言われたらどうしよう……。

 ふいに彼がグラスを置いた。
「なぁ、お前から見ると、俺ってまだオジサンか?」
 おかしな問いに、ぷっと吹き出した。途端に緊張がほぐれる。
「そういうこと、聞くところが『オジサン』なのよね」
 彼も笑ってわたしを引き寄せた。抱かれるような格好になり、はっとする間もなく、彼が顔を近付けてきた。
「目、閉じろって」
 囁かれ、慌ててつぶると、彼の唇がわたしを覆った。舌先に促され、かすかに唇を開くと、彼がすぐさま侵入してくる。
 ああ、この味……、本当に久しぶり。
 とても恋しかった。待ち焦がれていた。でも、もう最後かもしれない……。

 そう思うと、以前の何倍も激しくキスを返していた。彼も情熱的に受け止めてくれたかと思うと、さらっとかわしてきたり、まるでじらされているような気分になる。
 今度はわたしの方から、夢中で彼を求めていった。
 抗議するように呻く声がした。彼の手が胸元に滑ってくると思わず震えた。わたしだけじゃない。樹さんもどんどん緊張しているのがわかる。
 でも、これ以上はだめ。今どこにいるのかも忘れて、のめり込んでしまうから……。

 彼がいきなり顔を上げた。
「今日は、反応がやけにいいな」
 慌てて身を引こうとしたけれど、手でぐっと抑えられて動けなくなる。彼の目を避け「何でもないの」とかぶりを振った。
「わたしも、少しは成長したのかも……」
「……美里」
 静かにはっきり名を呼ばれ、また押し黙ってしまった。
 彼は、待ってくれているんだ……。
 わたしは目を閉じた。でも、樹さんの追及はやまない。
「何があったんだ?」
「……ん、ちょっと……ね」
「さっき、俺に話があるって言ったよな?」
 目を伏せたままうなずく。
「関係あるんだな?」
「……うん、まぁ」
「そのために、今夜俺を呼び出したんだろ? なら、さっさと言ってしまえよ」

 さっきみたいな熱いキスの後で、他の男性との縁談をどう切り出せばいいのかわからなかった。
 それに、口に出せばこの大切な恋に別れを告げることになる。『さよなら』は、ありったけの勇気をかき集めなければ言えそうにない。

 まだためらっているわたしを見て、彼はひとつため息をついた。少し距離をとると、いいか? と確認してから、タバコに火をつける。
 こちらに煙が来ないように時折横を向きながら、なおも尋ねるようにわたしを眺めていた。

 唐突に、唇から言葉が滑り落ちた。
「実は……わたし、け、結婚することになったの……」



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12/12/11 更新