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 ようやくこぼれ出た言葉が、無言の壁にはじき返された。震える声で何とか続ける。

「あちらから急にいただいたお話で……。相手の人、うちの会社と長くお付き合いのあるTK銀行の頭取さんの息子さんなの……。昨日……お見合いして、来週、結納だって……。ほ、ほんと、突然来るよね、こういうことって!」
 だんだん声が高くなる。もしかしたら、これが運命の相手かな? と明るく笑いたかったのに、顔が引きつった。

 彼が大きく息を吸い込んだ。

 続く氷のような沈黙は痛いほどだった。楽しかった夜がすっかり台無しになった。
 一生懸命フォローの言葉を捜したけれど、何も浮かばない。そのまま、すくんだようにじっとしていた。


 マスターに閉店を告げられ、わたし達はようやく身動きした。
 まだ言い残したことがある。今、全部言ってしまわなくちゃ。
 やっと気付いたように、短くなった煙草を灰皿に押し付ける彼を見ながら、一生懸命続けた。
「つ、つまり……、今日、来てもらったのは……お礼を言いたかったの」
 樹さんが、さっとこちらを向いた。今度は何とか笑みを繕う。
「今まで長いこと、わたしの子守をしてくれてありがとう。わたしも、そろそろ自分で歩いていかなくちゃ……。やっと、樹さんから卒業する時が来たってことよね」
「……つまり、本日付けで俺はお払い箱。そういうことか?」
 きしんだ声。彼とも思えないほどかすれている。
 違う! と慌てて首を振った。
「まさか! だって、樹さんにとっても、ちょうどよかったでしょ……?」
「『ちょうどよかった』? 何がよかったんだよ? 俺にわかるように、はっきり言えよ!」
 吼えるような叫びだった。激昂し、マスターの目も忘れたように、わたしを揺さぶってくる。

 弱くなった涙腺から、たちまち涙が溢れてきた。それに気付いたのか、彼はいきなり手を離すと立ち上がった。
 はらはらしながら見ているマスターに、無言で支払を済ませ、振り向きもせずにラウンジから出ていく。わたしは慌ててコートとバッグを取り上げ、追いかけた。
 絨毯の敷かれたホテル最上階。エレベーターに向かって足早に歩く彼について、小走りに駆けていった。角で急に足がもつれ、がくんと膝を付いてしまう。

 どうしよう! こんな終わり方って、最悪だ……。

 両手で顔を覆い、嗚咽していると、いつの間にか戻ってきた彼がわたしの前に立っていた。腕を引っ張られ、ふらふらと立ち上がる。急に力いっぱい抱き締められた。

 やっぱり大好き!

 乱暴な抱擁の中、すすり泣くわたしに、彼がはき捨てるように言った。

「都合のいい相手ができたら、さっさと乗り換えるのか? 俺達の関係はその程度だったわけか? 俺はそんなつもりで、お前のままごとに付き合って来た訳じゃないぞ!」
 端正な顔が、まるで傷ついたように歪んでいる。
 その瞬間、わたしの中でずっと渦巻いていた渇望がほとばしった。

「お願い、樹さん! 一度だけでいいの。わたしを抱いて!」

 思い出が欲しい。ずっとずっと大好きだったあなたの思い出が……。
 それは、他の男性との結納を控えたわたしの、ただ一つの願いだった。


*** *** ***


 樹さんの両手が一層強くわたしの腕に食い込んだ。
 目を閉じていても、視線が突き刺さるようだ。

「ご、ごめんなさい、変なこと言って……。いいの、気にしないで!」
 やっぱりあり得ないよね、そんなこと……。
 沈黙に耐え切れず、慌てて撤回しながら、何とか身を引き離そうともがいた。
「今のは忘れて……。わたし、もう帰るから……」
「帰せる……はず、ないだろうが!」
 逃さない、というように、彼はわたしを片腕できつく抱えたまま、携帯を取り出した。もしかして、フロント……? その会話にどきりとする。

 急きょ、このホテルに部屋をひとつ頼んだようだ。でも、ここって、日本でも五指に入る国際ホテルじゃなかった?
 困惑するわたしを引きずるようにして、エレベーターのボタンを押すと、中へ引っ張り込んだ。
 二十五階で降りると、ホテルマンが待っていた。先に立って丁重に案内してくれる。落ち着き払った態度で堂々と歩く樹さんに、わたしは驚きを隠せなかった。
 部屋のドアを開けながら、ホテルマンが「急なことで、スタンダードのダブルルームしかご用意できませんが……」と、申し訳なさそうに説明している。
 ダ、ダブル何……?
 頬がかっと熱くなった。樹さんは短く礼を言うと、中へ入るよう、わたしを無言でうながした。


 二人きりになるや、裏返った声を上げてしまった。
「な、なんだか、樹さん、すっごく慣れてるみたい……。こういう所、よく来るの?」
 そんなこと、どうだっていいだろ、と顔をしかめる彼に、まさかね……、と引きつった笑みを返し、周りを眺める。
 柔らかなライトの下、広くてきれいで、とてもシンプルな部屋だった。
 窓の前にくつろげそうなソファーと液晶テレビが置かれていたが、一番衝撃だったのは、ど真ん中に陣取る大きなダブルベッドだった。見るなり、文字通り立ちすくんでしまう。

 やだ、ここ、ラブホじゃないのに。
 というか……、今からわたし達、本当に……?

 ずっと胸が痛くなるほど切望して、必死にお願いまでしたくせに、いざとなると心の準備が全くできていなかった。
 困惑して振り返ると、樹さんはドア近くに立ったまま、こちらをじっと眺めている。まるでわたしの一挙一動を観察しているようだ。

 ああ、今きっと、すごく情けない顔してる。
 まだバージンです、なんて、一目瞭然よね……。

 大きなベッドの前に、憧れの人と二人きりでいる時、どう振舞えばいいのか見当も付かなかった。びくびくしていると、彼がふーっと大きなため息をつきながら近付いてきた。
 ベッドに顎をしゃくり「座れよ」と高飛車に命令する。
 わたしはおとなしくバッグとコートを置いて腰を下ろした。へたり込んだという方が正しいだろう。彼は脱いだジャケットをソファーに放り投げると、ネクタイを緩めながら傍に立った。
 つい身構えてから、しまったと思ったけれどもう遅かった。彼の目が、おかしそうにきらめく。

「そっちは後だ。まず、俺にわかるように説明しろ。今、お前が置かれてる状況を」

 あのぅ……、『そっち』ってどっちでしょうか……?

 一瞬浮かんだ間抜けな突っ込みも、彼のこわい顔を見てたちまち引っ込む。
 でも……、父の会社の事情なんか、話したって仕方ないじゃない。

 樹さんも隣に腰を下ろした。ゆっくりとカフスとシャツのボタンをはずし始める。わたしが何か言うのを待っているようだ。でも、彼の動きが気になって、説明どころじゃない。

「今のお前の立場はどうなってるって聞いてるんだぞ? どうして何も答えない?」

 はっと顔を上げると、苛立った目にぶつかった。ちょっと慌てる。
「だ、だって……、話しても樹さんが困るだけだし……。これは、うちの会社の問題で、大学入試とはワケが違うんだから」
「やっぱりな。会社絡みだと思った。お前の顔見てると、そいつが好きで嫁に行くって感じでもないし」

 鋭い……。ぐっと言葉に詰まったところで、畳み掛けられる。

「さっき『TK銀行の頭取の息子』って言ったな? つまり、あの禿げの頭取の野郎、親父さんへの融資と引き換えに、お前に息子の嫁になれ、とか強要してるのか?」
「……えっ、どうしてわかったの? それに、TKの頭取さんを知ってるの?」

 ずばり言い当てられ、同時にその失礼な言い方にも目を丸くした。樹さんは、納得したようにうなずいている。

「美里、お前もお前だ。どうかしてるんじゃないか?」
 今度は、説得するみたいな口調になった。
「どうしてはっきり『嫌だ』と言わないんだ? そいつと結婚なんかしたくないんだろ? だったら、さっさと蹴飛ばせば済むことじゃないか」
「そんな……、そんなに簡単に言わないでよ! 何も知らないくせに!」


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12/12/17 更新