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 午後、急に帰ってきた父に大声で呼びつけられた。何故かひどく興奮しているようだ。
「美里、出かけるからすぐに支度をしなさい! 明日用に借りてある着物を着てな。お母さんもだ」

 え……? 日取りが早まって今日になったの?
 覚悟はしていたけれど、やっぱり顔から血の気が引いていくのを感じた。

 いきなりのことに、母も驚いたようだ。
「どういうことです?」
「実はさっき、TK銀行の塚田頭取から電話があってな……。その……、明日の結納をキャンセルしたい、とおっしゃるんだよ。理由がはっきりしないが、この話を白紙に戻したいと言われてな」

 えっ? それじゃわたし、あの息子と結婚しなくてもいいの?

 訳がわからず、ぽかんとする。
 横から母が、血相を変えて父に詰め寄った。
「どうして今頃になってそんなことを! こちらの対応にご不満でもありましたの? 困りますよ、それじゃ美里の立場はどうなるんです? 会社への融資だって……」
「それがだな……」
 父の顔が次第に紅潮してきた。声も上ずっている。
「その電話が切れたあと、いよいよ全て終わったと呆然としていたら、もうひとつ電話がかかってきたんだ。それでわたし達全員が、ご招待いただいたんだよ! どうなっているのか、さっぱりわからないんだが……」
「ご招待? どちらに?」
 母が鋭く問い返した。要領を得ない父を揺さぶらんばかりになっている。父が大声を張り上げた。

「驚くなよ! なんと、あの九重《ここのえ》グループ会長の本邸だ! 天下の九重ホールディングス会長、九条武文《くじょうたけふみ》氏の秘書の方から直々にお電話があってな。会長が、うちとの取引の件も含め、一度ご家族全員にお会いしたいとおっしゃってくださっているそうだ。夢のようじゃないかね?」

「九重?」

 わたしと母が同時に叫んだ。多分同じ事を考えたのだろう。瞬時に真っ赤になったわたしの顔をまじまじと見つめ、問い詰めてくる。

「そう言えば、榊原さんから何か届いていたわよね? あれから、何かお話したの?」
「あ、あれは……、だけど、すぐにお返ししたもの!」
「美里! 正直に答えなさい! 彼はいったいどういう人なの?」
「そんなこと、わたしに聞かれても……」

 ぶんぶんと首を振りながら、自分でも愕然《がくぜん》とする。
 そう。わたしが知っているのは、榊原樹さん本人のことだけ。それすら、はっきりしたことは何も知らない。
 知り合って三年以上経つのに、何度もデートらしいことまでしているのに、彼のご家族や周囲のことなんか、まるっきり聞いていなかった。
 本当にどうして九重の会長秘書が直々に電話してくるの? しかもこのタイミングで……。
 一中小企業が倒産の危機に瀕しているからって、日本を代表する巨大金融グループのトップがわざわざ声をかけてくるなんて絶対ありえない。それくらい、学生のわたしでもわかる。

 混乱しながら言い合っていると、父がまた大声を出した。
「とにかく急いで支度をしてくれ! 三時に九条邸から迎えの車が来る約束なんだぞ。あと一時間半しかないじゃないか!」
「く、九条邸って、どんなお屋敷なんです?」
「わからん。お前達は一番いい着物で行くしかないだろう」

 たちまち、家中ひっくり返したような大騒ぎになった。
 大至急シャワーを浴びている間に近くの美容師さんが呼ばれ、わたしは本番用メイクをして髪を結い上げ、京友禅の振袖を身に着けた。
 まるでもう一回お見合いに行くみたいだ。でも異議を述べている余裕はない。母も一番高級な着物を着込み、やけに念入りに化粧している。
 ばたばたしているうちに、たちまち三時になった。時間通りにドアベルが鳴る。
 マツ乃さんが恐る恐る開くと、いかにもお抱え運転手という風情のブラックスーツの男性が、リムジンをバックに、にこやかに立っていた。


*** *** ***



 わたし達三人を乗せて車はどんどん走り、都内でもまったく馴染みのない区域へ入っていった。
 どこかの名士の広い敷地を囲んでずっと白塗りの塀《へい》が続いている。ぼんやり眺めていると、車が左右に開いた高い門をくぐって中に入って行った。

 これ、全部お庭なの? 母と囁き合いながら周囲を注視する。
 敷き詰められた芝生やじゃり、情緒のある庭石や松の木、池が、まるでどこかの公園のように続いていた。
 ようやく正面にお屋敷が見えてくる。
 車から降りたわたし達は、どっしりと黒い瓦をいただいた、武家屋敷みたいな造りの館を眺めて圧倒された。

「こちらからお入りくださいませ」

 和服姿の女性が出てきて丁重に案内してくれる。わたし達はおそるおそる中に入っていった。
 豪華なふすまで仕切られた部屋から部屋を、ぐるっと囲んで続く廊下をかなり歩いて、やっと奥の間にたどり着く。
 通されたのはお茶の会ができそうな広い畳のお部屋だった。
 掛け軸と生け花の飾られた床の間を見て、まるでお殿様の部屋みたいだと思った。障子を開ければ、手入れの行き届いた中庭が見える。
 恐縮しながら座っていると、すっと前方の障子が開き、留袖の、とても上品できれいな女性が入ってきた。
 年は母と同じくらいだろうか。お茶とお菓子――それも本格的なお抹茶のお茶碗で――の支度を整えた、さっきの人が後ろに続いている。

「急にお呼びたていたしまして、申し訳ありませんでした。どうぞ、おくつろぎくださいな。申し遅れました……。榊原可南子《さかきばらかなこ》と申します。息子の樹が皆様に大変お世話になったそうで……」
「樹さんの……お母様ですか!」
 すっとんきょうな声をあげてしまい、脇からぐっと睨まれた。両親が慌てて、とんでもございません、こちらこそ大変大変お世話になりまして……と、上ずった声で返している。
 二人とも、完全に訳がわからないという表情だ。
 一通りの挨拶を終えると、その女性――樹さんのお母さん――は、お茶を勧めてくださり、わたしに親しみのこもった目を向けた。

「あなたが美里さんですか。本当に、とてもかわいらしいお嬢さんだこと……。今、F女子大学に通っておられるそうですね。樹の授業、少しはお役に立ちましたか?」
「は、はい、もちろんです! こちらこそ、大変お世話になりまして……」

 樹さん、わたしのことなんか、お母様に話していたんだ……!
 というか……、樹さんって、ここの何?  関係者なの? まさか……。そんな人がどうして家庭教師なんか……?

 おずおずとお返事しながら、解けない疑問が頭の中をぐるぐる回っていた。振袖で来て本当によかった。普通の服だったら、きっと気後れして逃げ帰りたくなっている。
「ただいま会長がお越しになりますので……」
 案内してくれた女性が言った。両親もわたしもますます緊張し、お茶にも手を出せない。
 わずかに廊下がきしみ、静かにまた障子が開いた。
 長着羽織姿の堂々とした白髪の老人に続き、きちんとしたスーツ姿の樹さんが入ってきた。
 見るなり、わたしの目が潤んでくる。

 やだ、また泣いちゃう……。

 一生懸命我慢したけれど、ぽろっと涙が零れてしまい、慌ててぬぐった。わたしの方をちらっと見た樹さんが、一瞬顔をしかめる。
 九重の会長さんを真ん中にして、少し後方にお母さんと樹さんが座った。こんなの、信じられない。いったい、どうなってるの?
 そう思っていると、会長がこほんと咳払いして話し始めた。

「初めて御目にかかりますな。事情はすでに聞き及んでおります。御社の企業価値と株式価値については、現在、担当の者が調査中だが、さしあたって、必要な資金を当社で計上し……」

 要点をついた、問い返す隙もないくらい一方的なお話だった。両親はかしこまったまま、驚きと安堵の入り混じった顔で聞いている。
 どうやら、うちの会社は倒産を免れたばかりでなく、九重の大資本をバックに再生をはかれるようだ。
 でも、どうして……? どうしてわたし達にそこまでしてくれるの?
 そのとき、会長がわたしをじっと見て、わずかに表情をほころばせた。まるでわたしの内心を読み取ったように応えてくれる。

「……今までどんなに言い聞かせても、まったく聞く耳を持たなかったこの頑固な孫息子が、お嬢さんのことでようやく折れてくれましたのでな。交換条件と言えば聞こえは悪いが……」

 ま、孫――!

 苦笑している会長の前で、わたし達は三人とも絶句して、呆然と樹さんを見た。


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12/12/28 更新
次回でラストです〜。
晦日にかかりますが、最後までよろしくお願いします〜。