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 大切なものは人それぞれ。でも、守りたい思いは同じはず……。

 冬は雪に閉ざされる北陸の田園地帯。米どころとしての豊かさと、大地の厳しさと清浄さに満ちたその一角に、わたしが幼い頃から慣れ親しんだ、海東(かいとう)酒造工場があった。

 我が家は明治創業の地酒の老舗を営んでいた。地場産業として地域の商工会や振興会に所属しながら、清酒を製造、販売している。
 昔ながらの伝統手法で造るうちの酒は、販売規模こそ小さいが、どこにも負けない深い味わいがあると思っている。
 けれど昨今、実直な味だけでは、経営事情は許してくれないようだ。合理化、量販化の嵐の中、四代目蔵元の父がようやく株式会社の体裁を整えたものの、かさむ設備投資に加え、大手飲料会社からマーケットシェアを押され続けていた。資金繰りも徐々に煮詰まってくる。

 わたしが、元夫、加賀原匠(かがはらたくみ)との短すぎる結婚生活に終止符を打つ決意をしたのはこの頃だった。
 話を切り出した途端、じっと黙りこくってしまった彼の前で、離婚届に判を押すと、わたしはそのまま一人、新幹線で故郷の工場に戻ってきた。

 あれから、もう五年……。あっという間に過ぎてしまった。

 当時は、まだ無鉄砲にも果敢に挑戦できる若さと勢いを兼ね備えていた。けれどとうとう三十路に突入した今、一人手酌をしながら、妙な感傷めいたものがこみ上げて来る。

 庭の満開の桜が、今年もはらはらと白い花びらを散らせ始めている。まるで舞い落ちる雪のように。こんな夜は特に、【彼】のことが痛みと共に思い出されるようだ。

 馬鹿みたい。未練だなぁ。

 大きなため息をついて、ちょっと笑ってしまった。笑いながら涙がぽろぽろっと頬を伝う。
 彼のことは大好きだった。別れたくて別れたわけじゃない。けれど結婚したときから、この温かい腕の中に長くは安住できないこともよくわかっていた。
 そんな結婚、したこと自体が間違いだった、と言う人もいる。
 きっとそうだったんだろう……。
 でも、後悔はしていない。彼はとても大きくて、あったかい人だった。わたしは彼の隣で背負っている荷物を下ろして安らぎたかったのかもしれない。たとえ、ほんのひと時だけでも。

 別れた理由は、わたしが自分の立場を譲れなかったことだ。わたしには、父と故郷の工場を捨てることがどうしてもできなかった。彼の方もすでに、わたしよりもっと大きな揺ぎ無い位置に立っていて、多くの責任を負っていた。互いの立場に縛られたままで、話し合ってもどうにもならない。すぐに遠距離化する無意味な結婚生活を解消することに、彼も強いて異議を唱えなかったからだ。



 将来を真剣に考え出した時から、わたしの夢は決まっていた。当時、細々と経営を続けていた先祖代々のわたし達の城、もとい、酒蔵所をもっと、できれば全国レベルに拡大すること。
 そのための修行をするつもりで、一生懸命に就職活動をして、ついに念願の日本有数の飲料会社に入社した。

 三年先に入社していた匠に出会ったのは、入社して二年経ったとき、わたしが配属された開発企画室で、だった。
 彼とわたしは同じ企画、同じ夢を共有する者同士、すぐに意気投合し仲良くなった。当時、匠もまだ平社員だったから、同僚になる。
 でも実はこの彼が、当日本有数の飲料会社の社長ご令息様だ、と知ったのは、少ししてからだった。うっそー、と間抜けな声を出したわたしに、教えてくれた別の同僚が、だから、高嶺の花だからね、恋しちゃ駄目だよ、などと笑いながら釘を刺してくれる。
 確かに……。わたしもこくこく頷いた。匠のクールで端正な横顔を見ながら、当然のごとく全女子社員の憧れの的だろうな、と察しがつく。
 気軽な服装でオーケーの社内で、彼はいつもちょっと変わったデザインのデニム生地の帽子をかぶっていた。いつかそれがトレードマークになっていたような気がする。
 毎日一緒に仕事する相手としては、匠はやばいくらいイケメンだった。その上、態度が気さく過ぎた。世間知らずで、イケメンに免疫のないわたしなんか、陥落するのは時間の問題、本当にあっという間に恋してしまったような気がする。

 でも、そんな思いを彼に悟られるのは絶対にイヤだった。バレたら仕事がやりにくくなるのは目に見えている。
 だから、芽生えてしまった微妙な恋心は断固押し隠し、あくまで同僚として、気楽な付き合いを続けていた。そして、二人して研究だと言っては仕事の後で、よく呑み歩いた。
 思い返せば、あの頃が一番至福だったと思う。

 二人を包む穏やかな春のような日々をぶち破ったのは、お定まり的なある夜の出来事。
 そう、あれは東京に初雪が降った日だった……。



「ねぇ、見て! 雪! 天気予報、はずれたね」
 遅くまでかかった会議を終え、企画室を出ると、暗い窓に降りしきる雪が見えた。
 わたしははしゃいだ声をあげ、最後に出てきた匠を振り返った。

「ガキじゃあるまいし……、雪がそんなに嬉しいのかよ。車出すのが大変になるだけだろーが」
 ちらっと窓を見上げて顔をしかめる彼に、わたしは唇を尖らせてみせた。
「仮にも、日本酒開発してるくせに、情緒ってものがないかなぁ? こういう晩は雪見酒って、相場決まってるでしょ。うちの地方なんか、冬は毎晩そうだよ」
「あー、始まった。はいはい、わーった。わかりましたよ」
 いけない、またやっちゃった、故郷(ふるさと)自慢……。
 あまりしょっちゅう言ってるから、彼も耳たこになってるだろう。でも匠はいつも、ちょっと仕方なさそうにため息をついて、笑うだけだった。
 冬のコートに身を包み、二人並んですっかり雪景色になった街を歩く。大通りはすでに渋滞し始めている。

「雪見酒もいいけどさ、車、装備なしだぞ。動かせなくなったらどうするわけ?」
「たまにはメトロでもいいんじゃない?」
 わたしはくすくす笑って空を仰いだ。わたしの故郷では冬になると、いつも雪景色だった。
「こんなに降るの、東京じゃ珍しいもんね。地元じゃしょっちゅうだけど」
「そりゃ、さぞ大変だろうな」
 まじめくさって応える彼に、わたしはいつものノリで気安く誘った。
「いいじゃん、だから行こうよ」
「まーた、お前、最近そればっかだな。女のくせに酒乱になったらどうする。この前だって危うく……」
 酔って彼にかかえられるようにして、部屋まで帰ったらしい。あまり覚えてないけど。
「あ、あの時は、ちょっとコンディション悪かったの! 今日はぜんっぜん問題ないから! こないだ新発売になった銘柄の試飲するんだもん」
「はいはい、その心意気、さすが酒造処のムスメさんですこと」
 匠がまた笑った。本当に仕方ないな、とあやすように頭をポンポンと軽く叩かれ、心臓がとくんと跳ねる。
 彼の笑顔が大好きだった。目じりに皺が寄り、男の癖に綺麗な顔が、泣きつきたいくらい優しくなる。
「男顔負けじゃないと、この業界では生き残れないもんね」
 慌てて彼から目をそらし、照れ隠しにもう口癖になった言葉を繰り返す。
 そう、男には負けない。負けたくない。幼い頃から、父親に、うちは娘しか居ないから、と言われるたびに、わたしは心にそう誓ってきた。
「んじゃ、行こっか」
 にかっと笑って、わたしは匠の腕に腕を絡ませた。その夜も、いつもと同じ展開になるはずだった……。
 そう、どこかの馬鹿社長が、札びらをひらひらさせながら、わたしにセクハラトークをしかけてこなければ。


patipati

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13/3/13 更新
大変遅くなりました〜!!
サイト10周年のご挨拶など、ブログ にて