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 思い出すと、今でも笑いが込み上げてくる。

 ほんとーに強引だったなぁ、匠ってば……。呆れて、笑っちゃうくらい。
 だけど、あの時のわたしは、だめと言うには彼に夢中になり過ぎていた。

 だから、面倒なお式も披露宴も何もなし。
 単に籍入れるだけの簡単な結婚で、ってことで互いに合意したんだっけ……。


 はぁ、とため息をついて、わたしは手元の通帳に再び目を落とした。
 いけない、いけない。なつかしい思い出より、今のシビアな現実を見つめなくちゃ。

 もちろん、こうなるまで、ただ手をこまねいて見ていたわけではない。けれど、つなぎ融資を頼みに行った銀行で断られた夜、父がとうとう倒れてしまった。とどめのように長期入院することになり、母とわたしは真っ青になった。
 泣き面に蜂とは、まさにこのことだ。
 一応社長補佐として、わたしに課せられた仕事は、病床の父と十数人の従業員達とともに、操業を継続するための資金問題の解決だった。

 とにかく、大至急お金がいる!
 もう手段を選んでなんかいられない……。
 感情問題なんかで、四の五の言っていられる時期はとっくに過ぎてしまってるんだから。

 そう自分を鼓舞してようやく覚悟を決めると、わたしは長い間封印していた【彼】の電話番号を、アドレス帳から探し出した。
 その番号をしばらくじぃっとにらんでいるうちに、別れた日、最後に交わした匠との会話が浮かんでくる。

「お前にとってさ、俺の存在って、結局その程度だったわけ?」

 横を向いたまま、かすれた声で問われても、何も言えなかった。言い訳と共に、また弱い心が噴き出してくるだけだ。
「ごめんなさいっ! ほんとにごめん! ほんとに何もいらないし、文句も一切言わないから!」
 だから、ただ平謝りに謝って、そのまま振り切るようにマンションを出てしまった……。


 はー、と、思わず自分の顔を両手で覆ってしまう。
 それなのに今頃になって、ぬけぬけと彼に頼ろうとしてるなんて……。
 こういう【女の弱さ全開モード】って、大嫌いなのになぁ。
 第一、彼と話をするのも、あの日以来だから、約五年ぶりだし。

 どうやって切り出そう?
 その前に、やっぱり、どー考えても無理ッポいんですけど……。

 あんた誰? とか言われて、さくっと電話を切られそうな気がする……。


 まぁ、これ以上ぐだぐだ悩んでも仕方ないよ。そのときはそのときっ!
 女は度胸だ!

 そう口走って勢いよく受話器を取り上げると、コールした。心臓が口から飛び出しそうになっている。

「あ、あのぉ、加賀原……匠さん、ですか? こんばんは。わたし、海東里穂ですが、覚えてま……」
 覚えてませんよね、と言いかけた途端、懐かしい陽気な声に、さくっとさえぎられた。
「おー、本当に里穂じゃん! これはまた、おめずらしいことで。元気か?」
 やや嫌味っぽい口調で言われ、やっぱり! と呟いて受話器を置きそうになったわたしに、彼はちょっと慌てたように、
「待て! 切るなよ」と、こちらの動作を見透かしたごとく言う。
 ……そうだった。ここで切ったら全てが終わる。
 心臓を一層ばくばくさせながら、どうにか気を取り直すと、わたしは見えてもいない相手に引きつり笑いを浮かべてみせた。
「あのぉー……、た、匠さんも、お元気でしたでしょうか?」
 我ながらかなり間抜けな挨拶を返すと、受話器の向こうでクククッと笑われている気がした。けれど続けてすぐ様、
「そろそろ来るかなー、と思ってた。存外遅かったな」
 その調子があまりにもあの頃と同じで、つい懐かしい彼の顔がドアップで目の前に浮かんでしまった。
 うっ、とまた心の中で唸る。
「はぁ、何が遅かったのでしょう……」

 もはや間抜けの見本のような返事をしていると、また小さく笑う声がして、陽気に返された。
「ともかく。電話じゃなんだし、こっちに出て来いよ。明日の午後一時に時間空けとくから。あの店でな」
「あの店に明日の午後一時、……ね。うん、わかった……」
「必ず来いよ。じゃあな」

 電話が切れた後、今のいったい何? と受話器を手にしたまま、目をテンにすることたっぷり一分。

 な、何だったんだろ? ほんとに……。

 それでも、とにかくアポイントは取れたんだから!
 いいよねっ、と自分に言い聞かせると、やおら立ち上がって両のこぶしを握り締めた。
 えいえいおー、と天を突く真似をし、から元気を絞り出そうとする。

 これだけは避けたかったけど、今はとにかく彼に頼み込むしかない。
 もし、運良く融資してくれたら、なるべく早く返済できるよう、また頑張ればいいから!

 そうしてわたしは、ただ出かけてきますと言い置いて、翌日早々、東京行きの新幹線に乗った……。


*** *** ***


 愛用のタブレットを手に五年ぶりに上京したわたしは、約束の時間の十五分前に、緊張しながら指定されたコーヒーラウンジに入って行った。そろそろランチタイムの混雑も引きはじめている。

   匠に『あの店』と言われたら、昔よく一緒に食事に来たここしか考えつかなかった。
 店の名前なんか覚えていなかったから、正確に確認しようもなかったけれど、本社のすぐ前にあるこの場所は今も変わっていない……。
 入った途端、懐かしい空気がまといつく。つい、あの頃一緒によく座った二階の窓際席に座ると、軽食を注文した。目の前にメニューの品が並んでも、彼はまだ来ない。
 ガラス越しに見る【エードドリンク・コーポレーション】本社ビルも、五年前と少しも変わらないようだった。
 昼休みを終え、足早に行き来する社員達の姿を眺めていると、妙な感傷が湧いてくる。自分だけ、時の流れから取り残されてしまったようなやるせなさ……。

 匠、本当に来てくれるのかな。

 一年くらい夫婦してたとはいえ、今ではとっくに赤の他人。
 昨夜、アポイントをとってから、改めて彼の情報をネットで調べてみたところ、三十三歳にしてエードコーポレーションの副社長様になっているらしい。その上、既婚だとか、探してもいないことまで目についてしまい……。

 ああ、そっか……。
 彼、とっくに再婚してるんだ……。

 そんな当然のことに何故か衝撃を受け、いきなりパソコンを閉じてしまった。だから新しいお相手のことまでは調べなかったけれど。

 簡単にアポイントが取れたと、昔のよしみに期待したわたしが甘かったかもしれない……。
 もとより彼にとって、わたしは「ほんのひと時妻だった女」と言うだけで、今さら感満載のうざい相手という以外、何の意味も持たないだろう。でもわたしにとっては、残された唯一のコネクション。このつてが消えたら、後はどうすればいいのか、本当にわからない。

 いいわよ。もしすっぽかす気なら、本社まで押しかけてやるから!
 こっちはそれくらい切羽詰まっている。見てなさい。来いと言われてここまで来た以上、このまますんなりとは帰らないんだから!

 変な気合いを入れ直すと、わたしはビジネスバッグから持参した書類を取り出し、タブレットのファイルを開いた。
 新幹線の中で何度も練習したプロモーションをもう一度反芻し始める。改めて彼の会社を目にし、その大きさにびびっている世間ずれした自分が居た。言葉と資料に少しでも説得力があることを祈りながら、もう一度窓の下に目をこらしても、らしき姿は見えない。

 とうとう携帯を取り上げたとき。
 背後から「……里穂」と、低い声がかかった。



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patipati
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13/3/28 更新
あとがきなど ブログにて