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 その意外な言葉に驚き、わたしはぱっと振り向いた。
 彼はまだ桜の木を見上げていた。少し咎めるようなその横顔に白い花弁がかかり、さびしそうな陰影を落としている。

 彼は今まで一度も、わたしに文句を言ったことはなかった。でも、だからって何も感じていなかったわけじゃないんだ。その時、はっきりとわかった。
 次の瞬間、わたしは「ごめんなさい!」と、思い切り頭を下げていた。
「本当にごめんなさい!」
「……里穂」
「でもね、匠……」
 わたしは彼を見ないようにしながら、そっと続けた。
「あなたのこと、今でもやっぱり大好きだから」

 彼がはっと息を呑んだ気がした。食い入るような、物問いたげな視線から逃れるように、わたしは満開の桜の枝に向かって微笑みかけた。

「……もちろん、うちの会社のこととは一切関係なしにね。離れていても、いつも大好きだったから。この気持だけは、多分この先もずっと変わらないから……」

 おそらく、もう彼がここに来ることは二度とないだろう。この花吹雪の幻の中で、最後の最後に、自分の気持に素直になる時が来たのだと悟っていた。
 今まで、どうしても言葉にできなかった謝罪と愛を、サヨナラの間際にやっと口にすることができた。そのことにひそかに安堵さえ覚える。

 沈黙していた彼が、やがて、ふーっと大きなため息をついて、わたしの傍に立った。

「里穂、俺を見ろよ!」
 やや荒っぽく、いきなり肩を掴まれてしまった。
 否応なくわたしを振り向かせると、彼はわたしの顔を覗き込むようにして勢い込んだ。
「一方的かつ自己満足的に、一人で勝手に完結するなよ! お前はいっつもそうだって、全然自覚してないだろ? それじゃ聞くが、俺が守りたかったものが何だったのか、お前、わかってるのか?」
「……匠?」
「ずっとお前は……、俺よりも、故郷と自分の家を選んだと思ってた。だったら、俺が無理やりお前を東京に押しとどめておいても、何の意味もないと思ってた。どんなにお前に会いたくても……。でも、それなら……」

 彼の唇に要注意の微笑が浮かんだ。まだ固まっているわたしを見つめる目がきらめく。
 はっとする間もなく唇が降りてきて、しっかりとわたしの唇を覆った。たちまち身体の奥で火花が散る。こんなこと、してもいいんだろうか。一瞬、理性と本能がせめぎ合う。けれど、所詮無駄な抵抗だった。わたしの方こそ、長い間、このぬくもりが欲しくてたまらなかったのだから。
 触れ合った唇から懐かしい彼をもっと味わいたくて、夢中になってキスを返し始めた。ほとんど同時に、彼の両腕が力いっぱいわたしを抱き締めた。本当に痛いくらいの力で……。

 ああ、この感覚……。
 忘れていた。思い出したくなかった。
 そして思い出してはいけないものなのに……。

 つい、全てをゆだねてしまいそうになったとき、昨夜パソコンで見た『既婚』の二文字を思い出した。途端に、心に平手打ちされたようなショックを覚える。

 そうだった! 匠には、新しい奥様がいたんだ!
 なのに、元妻にまでこんなキスするなんて……。

 わたしはひどく慌てた。混乱し、同時にその節操のなさに腹が立ってきて、顔をそらし抱擁から逃れようともがき始めた。けれど、動くな、とばかりに、ますますきつく抱き締められてしまう。

 駄目だよ……。どうするのよ。
 もう一度寄りかかったら、今度こそ抜け出せなくなってしまうのに……。

 とうとう涙が頬を伝い落ちた。彼もそれに気付いたようにようやく顔を上げた。
 黙ったまま嗚咽しているわたしに、驚いたように何か呟くと、指で涙をぬぐってくれる。そんな彼に、眼を伏せたままようやく言った。

「もう……、二度とこんなことしちゃ駄目だよ、匠」
「なんで?」
 なんでって……、知らないとでも思ってるの? 目の前で眉をひそめる無節操男に、思わずとがめるような声になる。
「だって匠……。今、奥さんいるんでしょ? 悪いとか思わないわけ?」
「奥さん? ああ、いるぞ。今、俺の目の前に。勝手に家出したまま、五年も帰ってこない不良奥さんが……」

 えっ……?

 自分の耳が信じられず、ぱっと眼を開いてまじまじと見上げてしまった。そんなわたしに彼は、仕方ない奴、とばかりに、ちょっと笑って再び包み込むように抱き締めてくれる。

「なんだ、本当に知らなかったわけ? だから、別れてないだろ、俺達……。お前、自分の戸籍謄本、今まで全然見なかったのか?」

 うっ。確かに見てませんけど……。

「だって……、あの時、確かに離婚届にはんこ押して、渡したのに」
「ああ、貰いましたねぇ、人の意見も聞かず、超一方的に。それに俺も判押して、役所まで出しに行けば有効だけどな」
「だ、出さなかったの?」
「はい、ご名答。ずいぶんと時間かかったんだな」

 嘘ーっ!!
 今知った衝撃の事実に、頭が真っ白になる。ということは、わたし達って今でも……?

 めまぐるしく変わっていくわたしの表情に、彼が可笑しそうに噴き出した。やがて笑いをかみ殺すように、もう一度両腕でわたしを抱き寄せ、優しい声で囁く。

「なぁ。わかっただろ。もういい加減で、俺ンとこに戻って来いよ、里穂」
「匠……」
「お前はもう十分頑張った。これ以上、一人で頑張るな。もう一度、俺と一緒に……」

 力強い腕の中。赤ん坊のように何度も揺すられているうちに、また目から大粒の涙が溢れ出した。
 もう限界だった。わたしは、彼にすがって本当に子供みたいにわあわあ泣いた。泣きじゃくりながら、こくり、こくりと何度も頷いていた。



「もしかして、お父さんとは、以前から連絡を取ってたの?」

 車に乗ってから、涙でぼろぼろの顔をティッシュでぬぐいながら尋ねると、彼はまた少し照れ臭そうな顔をした。
「まぁな。親父さんとは業務の今後のことも含め、以前から少しずつ電話で話してたんだ。お前に話すきっかけが掴めなかっただけで……。だからお前の方から連絡があった時は、超ラッキー! と思ったね」
「そんな……」
 もう言うべき言葉が見つからない。馬鹿みたいに沈黙していると、彼がエンジンをかけながら、さくっと言った。

「なぁ、先に東京に戻る? それとも、ホテルにする?」

 ま、ここなら旅館も風情がありそうだけどな、などと呟いている匠に、呆気にとられた。まるで食事に行く話でもしてるみたい。目が回りそうだ。

「た、匠……?」
「だからさ。俺達、たった今からもっかいやり直すの。それでお前と俺、半々で通えばオーケーだろ?」
「半々? って、いったいナニが……。どこが『オーケー』なのよー!」
 思わず叫んでしまったわたしの唇を、彼がおっと、とばかりにキスで塞いでしまった。しばらくしてやっと解放されると、ゼイゼイ息を継ぎながら、何とか声を絞り出す。
「もう……、なんでいきなりそうなるわけ?」
「ふーん? この期に及んで、まだそういうこと言いますかね?」
「だって!」
「あっは、ほんと可愛いよな、お前……。もう我慢できねーや。やっぱ、ホテルだな。過去五年分、利息もがーっつりつけて返してもらうから、覚悟しろよ」

 真っ赤になったわたしに、意味深な流し目をくれると、彼は楽しそうにハンドルを回し始めた。

 かすんだ目の端で、春の一番星が、きらりと瞬いた……。


〜 fin 〜



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patipati
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13/4/23 更新

かなり遅くなってしまいましたが、これにて一件落着、完結です〜。
御読み頂き、ありがとうございました。
あとがきもどきなどは、ブログにて……。