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 工藤隆裕が宮島瞳子に出会ったのは、まだ散り始めた桜の花びらが構内を舞う季節だった。

 彼は経済学部の三年生になったばかり。所属していた弁論部の部長になった隆裕は、キャンパス校舎間の通路に軒を連ねたサークルの出店に、他の部員と一緒に座っていた。
 入学式から二週間くらいの間、こうして恒例の新歓行事をこなす。弁論部はおせじにも花形サークルとは言い難かったが、それでもぽつりぽつりと来訪者はあった。
 背が高く顔立ちは悪くないのだが、いつもむっつりした無愛想な性格がたたってか、初対面の女性からは敬遠されがちな彼の隣で、にこにこと勧誘を受け持つのは、これまた二枚目で弁舌さわやかな文学部の二年生、大須真一だった。
「おぉ、君、弁論やってみたいの? なら、ここに座って、座って。ほら、工藤先輩、彼女にジュースと用紙!」
 何だこいつ、偉そうに。隆裕は机の下で探し物をしていた手を休め、むっとしながら前に立った来訪者を見上げた。
 一瞬ぽかんとした。長いストレートの黒髪が、目の前でさらっと流れ、彼女は整った顔に、落ち着いた表情を浮かべて、彼にひとつぺこりと頭を下げた。華奢な身体に黒のタートルシャツとジーンズの上下というごく普通のカジュアルな格好をしていたが、大層人目を引くのは、その際だった容姿のせいか、あるいは新入生離れした大人っぽい雰囲気のためだったのか。だがやはり彼女は新入生だった。
「君、どこの学部?」
 彼女の黒い瞳が、かがんだ彼の上に注がれている。突然感じた胸のざわめきを隠すように、隆裕はあわてて立ち上がりながらこう尋ねた。
「法学部です。法律学専攻」
「ははぁ、末は弁護士さんですか。さては、それで弁論術を今から磨こうとか」
 真一が茶々を入れるのを横目で制すると、彼は用紙を前に置いた。
「はい、これに記入してくれる?」
 彼女らしいきれいな筆跡だな、記入している様子を見ながらそんなことを考えて、いつの間にか言葉を付け足していた。
「部室にも行ってみる? 時間があるなら案内するけど」
 絶対にこのまま行かせたくないと思った。とにかく彼女と、少しでも話をしてみたい。
「そうですね。行ってみましょうか」
 彼女は少し首をかしげてから、そう言うとまた細い指先で長い髪をかき上げた。真一がヒューッと口笛を吹くのが聞こえた。それを軽くにらんで、先に立って歩きはじめた。
「宮島さん、どこから来たの?」
「東京です」
「へえ、どうしてまたこんな何もない田舎の大学に? 東京ならもっと君に良く似合う学校が、たくさんあるだろうに。ここは偏差値だけは高いけど、本当に退屈な所だよ」
「先輩、それって……」
「俺、工藤隆裕って言うんだ。一応部長。どうぞよろしく」
「じゃあ、工藤先輩。それってかなり偏見入ってません?」
 そう言われて、驚いて振り向くと、彼女の少し怒ったような黒い目が、こちらをじっと見つめていた。
「何が偏見……?」
「わたしこの大学が気に入ったから、入ってきたんですよ。もちろんおしゃれじゃないけど、あったかくて優しい気風があると思います」
「あ、そう? そりゃどうも」
 参ったな、そう大真面目に来られちゃ、やりにくいじゃないか。
 気まずい沈黙が流れる。
 やがて彼女がぷっと吹き出して、今度はくすくすと笑い出した。屈託のない笑顔を見つめる隆裕の心臓が、ぴょんと跳ねあがったような気がした。
「そんなに笑わなくても。君、先輩をからかっちゃいけない。ほらここ」
 照れ隠しの苦笑いを浮かべて、彼は部室のある学芸部棟を指差した。



 こうして、弁論部の新入部員になった瞳子は、一般教養の授業の傍ら、弁論部のボックス(部室)に足繁く通うようになった。新入部員は瞳子を含め十人だった。東京生まれの東京育ち、高校までは、都内でも有名なエスカレーター式のお嬢様学校に通っていた彼女に、こんな地方の国立なんてどうして来たの、つまらなくない? 友人達はみなそう尋ねる。
 だが、瞳子は気取ったお嬢様ではなく、しごく気さくな性格だった。昼は学食のどんぶりでも平気だったし、部室で他の部員と一緒に、コーヒーをかけてのトランプもやった。大体120円を出すかどうかで、1時間もかけトランプをしているなんて、大いなる時間の無駄にも思われたが、みんなこれがやたらと好きで、誰かが「コーヒー飲む?」と言い出したら、次に出てくるのはカードだった。
 瞳子はしょっちゅう笑い転げていた。毎日が新鮮でとても楽しい。ここには今までの学校では見つからなかった素朴な仲間達がいた。女の子達はブランド品で身を固めるよりも、バーゲン品でいかにおしゃれなものを掘り出すか、を楽しんでいる。バイトにも熱心だ。自分もやって見ようかと思ったが、本気で弁護士になりたいなら勉強した方がいいと思い直した。  初めて会ったときから、隆裕のことがずっと気になっていたが、彼はどうやら副部長の幸田理絵と付合っているらしい。瞳子の視線の先に気付いた先輩女子部員から、やんわり釘をさされてしまい、内心ショックを受けた。
 でも、こっそり思ってるだけなら、べつに迷惑もかからないわよね。
 瞳子はため息をつきながら、明日の弁論部定例会での発表内容を書いたレジュメを渡すため、少し離れた場所で理絵と並んで話している隆裕に近づいていった。手渡した後も、彼がずっと自分を見ているような気がして、落着かなかった。


 とびきり美人で頭も性格もいいときては、そこらの男どもが放っておくはずもないか。瞳子は女子部員の中で、一際目立つ存在だった。新歓合宿も終ったひと月後、ゴールデンウィークを過ぎた頃には、部内だけでも彼女に密かに告白して見事玉砕した奴は、数人にのぼったという話だ。まして女子の少ない法学部の奴等は、言うにおよばずだろうな。隆裕は、その日の三講目、念仏のような老教授の近代経済理論の講義を受けながら、階段状の大教室の隅でぼんやりとそんなことを考えていた。
 お前も、彼女に関心あるんだろう? そんな心の声が囁くのを無視し、その後も、部長と一部員の関係から、あえて踏み出そうとはしなかった。定例会などの日常的なサークル活動に、合宿の企画、はたまた他大学との交流会と、部長というのは、全く雑用ばかりでいろいろ忙しかった。
 彼と同学年の副部長で、サークル運営のいい相談相手だった理絵は、しっかり者で、色気はないが話のおもしろい女だった。酒も底無し。「ざる」を越えて、「枠」と呼ばれるくらい、いい飲みっぷりで知られている。彼女といることが多かったためか、回りからは付き合いがあると誤解されているようだったが、隆裕も理絵もことさら訂正しなかった。
 瞳子は高嶺の花だな。隆裕は時折疼く気持を無視して、目の端で彼女を追いかけながらも、わざと無関心を装っていた。



 十月になった。魔の前期試験もどうにかくぐり抜けられた。あと数か月で弁論部も引退かと思うと淋しい気がしたが、毎年そういうものなのだ。
 部活のなかったその日、残ってレポートを書いているうちに、いつのまにか日もとっぷりと暮れていた。学食で夕食を済ませ、隆裕が校門を出た時、偶然にも瞳子に出くわした。先に気付いたのは彼女の方だった。
「工藤先輩?」
 瞳子の声に隆裕が振り返る。彼女は白っぽいツーピースを着て、長い髪を珍しくまとめてアップにしていた。そのせいかいつもより可憐な雰囲気がある。思わず見とれたのを取り繕うように、隆裕は慌てて話しかけた。
「お、まだいたのか。もう結構遅い時間だよ。どうしたの?」
「明後日のゼミ発表の調べ物で、図書館に居残っていたんです」
「一年生から、もうそんなのあるんだな。ご苦労さん。それで終ったの?」
「大体できましたけど、あと質問されてもいいように、もうちょっと詳しく調べないといけないですよね」
「ま、たまに突っ込んでくる奴もいるからなぁ。俺が二年のときなんて……」
 相づちを打ちながら、しばらく色々なゼミの話をしていたが、突然隆裕が思い付いたように訊ねた。
「晩飯はもう食べた?」
「ええ、さっき同じゼミの友達と」
 あ、そう、と前を向いてつぶやいてから、再び彼女を見た。このまま別れたくなかった。もう少しだけ、一緒にいたい。
「瞳子ちゃんさ、すぐ帰らないといけないかい?」
「いいえ、べつに」彼の声の調子にどきっとしたが、さりげなく答えると、隆裕の口の端に微笑が浮かんだ。
「じゃあ、今からちょっと俺んちに寄ってかない?」
「先輩の下宿ですか?」
「そう。確かまだ来たことなかっただろ」
「そりゃ……」
 ドキドキしてるのが、どうか気付かれていませんように。無意識のうちにバックを掴む手にぎゅっと力が入るのを感じた。
「いいんですか? わたしなんかが行っちゃっても」
「もちろんさ。あと君だけじゃないかな。うちの部の奴でまだ来たことないのって」
「ええ!? 先輩、そんなにたくさん人を連れ込んでるんですか?」
 驚いて目を丸くすると、彼はおかしそうに吹き出した。手を額に当ててしばらく笑っていたが、彼女がむっとした顔になったので、ようやく収まった。
「ごめん。君って見た目もそうだけど、やっぱり真面目におかしなお嬢さんだね」
「どういう意味でしょう?」
「ほら、そういうところがさ」
「行くのやめようかしら」
「まあ、そう言わずに」
 やがて狭い路地へ入っていった。そこから近道すれば五分足らずだと言う。道々、取り止めもないことを話しながら歩いた。
「ほら、ここ。汚いから驚かないでくれよ。こんなことなら、もっときれいに掃除しておくんだったな」
 隆裕がそう言いながら、松寿荘と筆書された板のかかった、二階建の建物の玄関を開けた。中にはずらりと同じようなドアが幾つも並んでいる。乱雑に脱ぎ捨てられた靴が敷居の前まで投げ出されていた。男の人の大きな靴ばっかり。こんなの見たことない。瞳子が目を丸くしてためらっていると、隆裕はまた笑って声をかけた。
「こういうとこ、初めて? 君のアパートとはかなり違うだろうな。俺の部屋、二階なんだ。203号」
 鍵を取り出し、『203』のプレートを貼ったドアを開く。六畳と四畳半の二部屋に簡易キッチンがついている。煙草の匂いに混じって、少し男臭い彼の匂いがした。六畳部屋にはテレビとコンポデッキ、小さな食器棚と冷蔵庫があり、真ん中には小さいちゃぶ台が置いてあった。奥の部屋は勉強部屋らしい。瞳子は物珍しそうに、室内を見回した。




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