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 サイト4周年記念番外編


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 コッツウォルズの丘に見えるナナカマドやイチョウの木が、赤や金色に染まり始めていた。広葉樹林がいっせいにオータムカラーに変わる秋……。
 庭先を吹き抜ける風が冷たさを増すにつれ、ファームハウスの壁に絡まったツタが、緑から赤へと鮮やかに色づいていく。遠くの羊牧場では、羊達が来たる冬に備え白い毛を丸々と蓄えながら、のどかに草を食んでいた。


 今日も午後の心地よい日差しが辺りに満ちている。
 庭に広げておいたベッドカバーを丁寧に片付けていたケリー・グラントは、青空に浮かんだ雲を見上げ、ほっと小さなため息をついた。秋風に、ポニーテールに結んだ金髪がさらりと揺れる。新しいマタニティウェアは動きやすいニット素材で、着心地もなかなか快適だ。

 この春、彼女が再びコッツウォルズの我が家に帰ってから、数か月が過ぎようとしていた。


 季節の移ろいはテラスから庭に出るだけで手に取るように見渡せた。三年前、どうして気づかなかったのか不思議なほど、自然は日々豊かにその表情を変えていく。
 青空の色、緑なす大地の香り、池をゆったりと泳ぐ鴨や白鳥の親子達……。
 全てが同じ日は一日としてない。そう戻ってきて初めて気がついた。


 今日は自宅のB&Bに、予約が二つ入っている。
 訪れる客のために、そろそろ部屋の準備にかからなくては。

 昼過ぎまでに家事や買い物をすませ、午後は客室のセッティングや迎える準備をする。
 そして夕方からは訪れる客の応対。
 予約が多い日などはにわかにあわただしくなる。もちろん夫も手伝ってくれるが、基本的にこれは自分の仕事と決めていた。
 これが、今のケリーのささやかながらも楽しい毎日だった。



◇◆◇



 コールと二人、自宅ファームハウスで経営しているこじんまりしたB&Bも、今夏の観光シーズンはおおむね盛況だった。

 彼女が入ったことでコール一人だった頃に比べ、家庭的な配慮とサービスが行き届くようになった。彼女が作るブレックファーストの味も手伝い、評判は格段によくなっていった。
 やがて地元のタウン誌や利用者のブログなどに紹介され始めると、その影響は大きいもので、毎日のように予約が入るようになり、4つある客室が満室になることもしばしばだった。

 時間ができると、庭の手入れも兼ねてガーデニングにいそしむ。最初は慣れない手つきで花壇に花を植えていた彼女も、次第にこつが飲み込めてきた。扱いが上手になるにつれ、当然愛着も湧いてくる。
 たまに、客のいない晴れた夜には、夫と二人外に出て降るような星空を眺めたりする。
 見上げれば四季折々、違う星座が瞬いていることもすっかり忘れていた。
 自然の織り成す多彩なハーモニー。それは、心を開いて見なければ決して見えないものかもしれない。
 ある意味、都会では味わうことのできない贅沢だった。風景画家のジョン・グレイアム、こと彼女の夫、コール・グラントが、どうしてこの地の景観を飽きずにカンバスに描き続けるのか、最近ようやくわかってきたような気がする。

 過ぎていく時の中、愛する夫と二人で過ごすこの日々こそかけがえのないものだ。
 別居していた三年間を振り返って、ケリーはつくづくとそれを実感していた。

 こうして、彼女は今、夫と二人で充実した日々を送っていた。
 やがてコールも、B&Bの経営のほとんどをケリーに任せるようになり、自分はまた絵を描くことに戻っていった。


 あと二週間ほどでハロウィンを迎える。客室もそういうふうにアレンジしてみようかしら。
 そんなことを考えるのも本当に楽しい。
 それも終わる頃にはシーズンオフになる。この地方を巡る観光バスが運行を止めると、客足はぐっと少なくなるだろう。だがその頃には、このお腹もさらに大きくなってくる。出産を経験した大半の女性が言うように、やがては動くのもおっくうになるに違いない。


 妊娠がわかったのは初夏の頃。
 彼女がコールとやり直すと決め、ロンドンのアパートを引き払い完全にこちらに移ってきてから、たった一か月後のことだった。
 来年早々にも、二人のベビーが誕生する。
 コールは女の子に違いないと言うが、健康であってくれればどちらでもかまわない。それまでには、子供部屋も万端に整えなければ。
 きっと、これからは退屈している暇もないだろう……。



◇◆◇



「ケリー、またそんなことを……。僕を呼べばいいじゃないか。そういうことは僕がやるといつも言ってるだろう?」

 ふいに背後から少し咎めるような声が聞こえ、はっとして振り返る。
 いつの間にかテラスに夫が立っていた。手を腰に当て、ちょっと怒ったようにこちらを見ている。ラフな普段着のシャツの裾に、緑の絵の具がついていた。

「このくらい大丈夫だって、いつも言ってるでしょ? あんまり甘やかすと調子に乗って、年取った猫みたいに毎日食べては日向ぼっこばかりしてるわよ。気がついたとき、わたしがビール樽みたいになってたら、あなただって嫌じゃない?」
「君はそうはならないさ」
 負けずに言い返す彼女に表情をほぐし、くすっと笑ってコールが答えた。
「心配しなくても、僕がさせないよ」
「それはどうも。でもわたしが言いたいのはね、妊婦にも適度の仕事と運動は絶対必要だってことよ。だいたいね……」
 ふいに大真面目な顔になり、説教するように歩み寄って来た彼に腕組みしてみせる。
「さっきお昼に、お食事だって何度呼んでもなかなかアトリエから出てこなかったのはどこのどなたかしら?」
「それは……、そのときの気分の乗り具合によるんだよ。絵筆の滑り具合と言うかね」
「あら! 今は違うって、どうしたらわたしにわかるのかしら? それに、ほら、これ見て!」
 シャツの汚れを差して、大げさに声を上げる。
「せっかく洗濯したのに、またしみがつくのも困るのよ」

 そのときコールの手が伸びて、彼女から籠を取り上げた。彼の目にからかうような光が浮かび、ほとんど同時に唇が彼のそれで暖かくふさがれてしまった。
 待ちかねたように目を閉じ、しばし夫の唇の誘うような甘い動きに陶然とゆだねてしまう。やがて彼の空いている手が動くな、と言うようにケリーの身体を捉え、キスにいっそう情熱の味がこもってくる。
 ようやく顔を上げたコールは、大きく息をついだ彼女の少し紅潮した顔を覗き込むと、わざと顔をしかめてみせた。

「相変わらずだな、口の達者なミセス・グラント。これで娘が生まれて十年もしたら、我が家のお喋りも二倍になるのかと思うと、ちょっと怖気を奮ってしまうね」
「そんな顔しても無駄よ。内心笑ってるのはわかってるんだから。それじゃちっとも困ってるようには見えないわ」
「お見通しかい? なんだ、つまらないな」
 シーツの籠を抱え直すと、コールは降参したと言う身振りをしておどけたようににやりとした。
「お喋りが二倍になれば、きっと笑いも二倍になる。今から楽しみで仕方ないよ」
「あなたはなぜか娘って決めてるみたいですけどね……」ケリーも負けずに言い返す。
「息子かもしれないじゃない? あなたによく似た栗色の髪の」
「うーん……」彼はわざと考え込むように一瞬目を閉じた。
「その時はその時。そうだ、もちろん一緒に写生に行くさ。ママ特製のサンドイッチ持参でね。虹マス釣りの連れができるのも嬉しいものだろうな」
「しっかりと計画までたててるじゃないの!」
「いっそ娘と息子、両方というのはどうだい? 僕はちっとも困らないぜ」
「わたしが困るわ!! ……順番にして!」
 ケリーの、コッツウォルズの秋空と同じ色の瞳に、陽気な笑みが溢れる。

 ようやくわだかまりも融け、理解し合えた夫と二人きりのかけがえのない時間。
 たいていは取り留めのない軽口と笑いに満たされて、あっという間に過ぎて行った……。



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07/07/06  更新