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後  編


 戻ってきた当初、彼はいつもこちらを見ていた……。

 午後の庭で、花を切っていてふと視線を感じたとき。
 リビングでの何気ない会話が、ふいに途切れたとき。
 振り向くと夫の金茶色の瞳が琥珀のような深みをたたえ、自分にじっと注がれている。
 その眼差しに引き込まれるように見つめ返し、しばし黙って視線を交わす。やがて、彼の表情の中にどこか切実な、切羽詰った炎が揺らめき始めるのだった。

 気がつくと、決まったように強い腕に抱き締められてしまっていた。
 かすれた呻き声とともに、夫の唇がケリーの唇を覆いつくす。求めに応じキスを返し始めるうち、お互いの身体がどうしようもなく熱くなっていくのがわかる。
 まるで飢えた人間が食物を求めるような激しいキスを繰り返す。これからやるべきことも、時間の観念もついには意識すら一切が消えうせて、あるのはただ互いへの切羽詰った欲求の炎だけになる。 満たし満たされようと夢中で舌を絡ませながら、いつしかどうにも収まらないほど燃え上がり、ついには彼の内側にすっぽりと吸い込まれ、包まれてしまうような気さえするほどだった。

 こうなると、もはやその情炎を鎮める方法は、たった一つしか見つからない……。


 ベッドに組み敷くようにして完全に一つになりながら、なおも彼女を抱き寄せ執拗なほど一層深く求めて、その根源まで我が物にしようとする。
 そんな夫の激しさについていくためには、覆いかぶさったたくましい肩に爪を立て、背中に腕を回してしがみつく以外どうしようもなくなるのだった。
 ほとんど力ずくのように彼女を抱いた後、彼はいつも少しすまなそうに顔を上げ、無言でケリーの額に滲む汗や目じりの涙をぬぐいとってくれる。
 そんな彼の仕草はとても優しくて、思いを端的に代弁していた。
 なぜか、切なさが胸に染み入り、また涙が零れてしまう……。


「ああ、君が本当にここにいるんだな……。目が覚めたらおしまいの、いつもの虚しい夢の続きじゃなく……」

 ある時、ベッドの中で彼女の顔の輪郭を唇で辿りながら、ふとコールがしみじみと呟く声がした。
 その言葉を聞いた途端、ケリーは閉じていた目を見開いた。暗がりにかすかに浮かぶ彼の顔を、呆然と見上げてしまう。
 そしてようやく、これまでの切羽詰った抱擁の意味が何もかも飲み込めてきた。
 自分が突然帰ってきたことが信じられず、今にもまたあの日と同じようにふいに出て行くのではと、そんな恐れを抱いているとでも……?

 いきなり家を出た自分の行動が、そしてその後の三年間の別離が、もともと孤独だったこの人の心を、さらにどれだけ傷つけてしまったのだろう。
 今更ながらに胸が強く痛み、たまらない思いになる。

「わたし、もう絶対にあなたを置いてどこにも行ったりしないわ。だから安心してちょうだい」
 お願いだから心配しないで。わたしを信じて……。
 思わず夫の首に両腕を回し、熱心に抱き締めようとしながら懇願する。はっと気付いたように彼もまた身じろぎした。
 ケリーの顎を掴み、かすかな外からの光にその表情を読みとろうとする。
 見下ろす琥珀色の瞳に一瞬濃い蔭が宿り、そして消えた。
「ああ、そうだな……。それに、もう二度とどこへも行かせやしないよ。君が何と思おうが絶対にね」
 コールの精悍な口元にちらりと皮肉な微笑が覗いた。魅入られたように見つめていると、彼の唇が再び下りてくる。

 互いに完全に満たし満たされたあとも、コールは彼女を背後から抱きかかえたまま、重なったスプーンのようにぴったりと寄り添って眠った……。


 時に、胸が締め付けられるような思いをこらえ、ケリーは笑顔で毎日を過ごした。
 微笑にはいつも飛び切りの笑顔で答える。彼が安心してくれるまで、何度でもそうし続けよう。

 そして、この子が生まれれば……。
 ケリーは、妊婦が目立ってきたお腹にたびたびするように、何度も手のひらを滑らせた。
 自分とコールの愛の証が今自分の中に間違いなく育っている。これほどの不思議と喜びがあるとは知らなかった。
 スリムだったお腹が徐々に膨らんで日に日に不恰好になっていくのも、彼は別に気にならないらしい。自分に注がれる夫の眼が輝いているのに気づくたび、心が強い歓喜に満たされる。


 そう。もっとも大切なのは、何気ない一日一日の積み重ね。
 互いへの信頼という、小さな積み重ねなのだから……。



◇◆◇



 その夜の用事が全て終った後、ケリーはまだアトリエにこもっている彼のために、とびきりおいしく入れたミルクティーとラズペリーパイの盆を手に部屋の扉を叩いた。
 振り返って部屋に入ってきた彼女を見た途端、彼が不意に大声を上げたので、驚いて盆を取り落としそうになる。慌ててしっかり持ち直したが、紅茶が少し零れてしまった。

 当の本人は笑いながら大股に近付いてきた。彼女の手から盆を取り上げ傍らのデスクに置くなり、ひどく嬉しそうにケリーの体を両腕にすくい上げたので、驚きはさらに倍増した。
「ど、どうしたの? 何かいい報せでも?」
 さっとキスされ床に下ろされる。目を見開いて尋ねる妻の表情に気付いたのか、彼は照れくさそうに傍らの水彩画を示した。
 そこには描きかけの何枚もの絵があった。シリーズ物なのか、どれもシンプルで繊細な雰囲気の作画だ。ますます不思議そうな顔をしたケリーに、コールはこう説明した。

「……挿絵の仕事なんだ。来年発売予定の新作絵本のシリーズでね。絵本だが、大人が読んでも結構楽しめる。原稿を読んで気に入ったから引き受けた。君もちょっと読んでごらん」

 言われて、タイプされた原稿を一部手にとってみる。
 表紙には【せかいでいちばんたいせつなもの】というタイトルがついていた。


『昔々ある国に、一人ぼっちのさびしい王様がいました
 厳密に言えば王様は一人ではありませんでした
 命令すれば何でも言うことを聞いてくれる召使達もたくさんおりましたし
 広い豊かな国もありました。
 王様は何でも持っていたのですが、何かが足りなかったのです
 でも、何が足りないのか、わかりませんでした
 そこで、王様はある日、ひとりでこっそり旅に出たのです
 それは、何か足りないものを探す旅でした……』


 一分冊を読み終えたケリーは、夫を見上げて微笑んだ。
「それで? このさびしい王様の探し物は見つかるの?」
「ああ、見つけるんだ。紆余曲折の末、放浪の旅から帰ってきてその間中彼を待っていた、たった一人の優しいプリンセスをね」
「いいお話みたいね……」
「最後のイラストのイメージがなかなか思い浮かばなかったんだが、たった今、君を見た途端インスピレーションが沸いたんだ。それで思わず……」
「あら、どんな?」
「子供を宿した若い王妃の柔らかい表情のイメージさ。これでよし、きっといい本になるぞ」
「出版されたら、是非この子にも読み聞かせてあげたいわ」
「この子に絵や話がわかるようになるまでには、確実さ」


「ねぇ、あなたにとっての『いちばん大切なもの』って、何?」
 その夜遅く。ケリーは愛し合った余韻の中で彼の胸に頬を摺り寄せ、ふとこう問いかけた。
「そんなこと、わざわざ聞くまでもないだろう?」
 コールが枕から頭を上げ、ついばむように彼女の鼻先にキスを落とす。 
「君さ、ハニー」
「わたし?」
 意外な答えに目をしばたかせると、彼はふっと笑って再び彼女を抱く腕に力を込めた。
「さっきの『さびしい王様』じゃないけどね。ささやかな自分の王国で、愛する妻を毎晩腕に抱いて眠れたら、男がそれ以上願うものは一つもないよ」

 ……女にとっても、きっと同じだわ。
 心の中でこう呟き、小さく微笑みながら、ケリーはさらに彼の胸にぴったりと寄り添った。

 やがて、満ち足りた眠りが二人を繭のように包み込んでいった……。


〜 FIN 〜



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07/07/09  更新
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