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 秋はメランコリーなんて、最初に言った人は誰だろう……。

『今日は はやく、帰れよ』
 まだ職場にいたわたしに、珍しく携帯メールが届いた。文面を見てちょっと笑ってしまう。
 父が慣れない手で一生懸命に書いている様子が浮かび、ほのぼのした。でも、理由は書いていない。
 上司の税理士先生に事情を話し、七時に会計事務所を出たわたしは家路を急いだ。
 勤務先の合同事務所があるオフィスビルから家までは、東京メトロと徒歩で約四十分。ペーパードライバーのわたしは、いつもバスか電車で移動する。密集した住宅街に建つ和洋折衷の二階建ての家に、三十路目前にもなって、まだ両親と同居している。
 お見合い暦は過去二回。それからパーティにも何回か。母の強い勧めで最近も行って見たけど、どうもお付き合いまで踏み切れない。一人暮らしのきっかけもつかめないまま、今まで何となく来てしまった。


 両親は再婚同士だ。
 わたしが母と一緒に今の家に越してきたのは、中学一年のとき。
 その日からわたしは『倉橋沙夜』になり、新しい環境で暮らし始めた。
 義父になったのは都庁務めの、まじめで穏やかな人だった。まだ子供だったけれど、父を見た途端にわかった。わたしが幼い頃に離婚して以来、女手一つで頑張ってきた母がずっと望んでいた『安定した暮らし』を、ようやく手に入れたのだ、と。父不在のわたしにとっても、初めて素直に「お父さん」と呼べた人だった。
 その隣には新しく弟になった翔平がいた。四歳年下。野球帽がよく似合う、くりっとした目が印象的な小学三年生……。
「はじめまして。くらはししょーへいです!」
 初対面のとき、やけに力の入った挨拶をされ、笑ってしまった。
「よろしくね! 翔平君!」
 元気にハグしたら、照れまくっていた。
 わたし達はすぐに仲良くなり、新しい生活に融け込んでいった。父、母、わたしと弟。ずっと憧れていた、家族四人の穏やかな日常……。
 再婚後も仕事を続けていた母に代わって、家事と翔平の世話を焼くのが日課になった。都内の高校から短大に進学したわたしは、在学中、就職に役立つ資格をいくつか取得して、今の会計事務所に就職した。


 わたしの性格はちょっと淡白なのかもしれない。高校時代からそれなりに付き合う相手もいたけれど、特に興奮もない日々だった。友人の派手なセックス体験談を聞きながら、フツーの彼氏とごくフツーで満足していた。
 堅実なお仕事をしながら、早くいい人見つけて結婚してね。
 母から耳にたこができるほど聞かされ、自分でもそれに外れない路線を歩いているうちに、人生ってこうやって過ぎていくのかなと、思うようになっていた。
 なのに、どこでピースを間違えてはめ込んでしまったんだろう……。

 家に向かう途中、大通りから三つ目の角を曲がったとき、あたりに漂う金木犀の甘い香りに気付いた。ご近所の庭先にある大きな木が、今年も花をつけ始めたようだ。
 この季節は苦手だった。正確に言えば八年前から苦手になった。金木犀の花は、記憶の底に鍵をかけて閉じ込めている記憶を、いきなり容赦なくよみがえらせてしまうから。
 ほら、また……。
 わたしは、唇を噛んで目を閉じた。
 そう、あの夜も金木犀の香りが、あたり一面に強くたちこめていた。



  ◆◇◆  ◆◇◆



 別に取り得もないわたしと違って、弟の翔平は、T大やY大に難なく行けそうな頭脳と、抜群の運動神経の持ち主だった。ルックスだって身長だって十分だったから、必然的に女の子達にとても人気があった。電話でうるさそうに、でも時々優しい顔で、彼女達としゃべっていたのも知っている。少し嫉妬を感じてしまうほど。
 わたしが短大を出て就職した時、翔平は高校二年になっていた。日増しに男っぽさを増していく弟は、同時に急に黙りがちになり、近寄りがたくなっていった。何か不満があったのかもしれない。けれど、家族には何も言わない。

 その夜も、父から食事の態度を注意され、不機嫌に立ち上がると、ふいっと外へ出て行ってしまった。そのまま数時間経っても戻らない。
 心配するわたしに、父は「放っておきなさい」と、怒ったように部屋に引き上げてしまった。母は神経質な顔で黙ったまま。
 十一時過ぎても翔平は帰らない。とうとうわたしは心当たりを捜しに出た。最近の態度は何だろう? 理解に苦しんでいたから、この際聞き出してやろうと思っていた。
 わたしは、翔平が親に内緒で通っているゲームセンターを知っていた。入っていくと、案の定だ。驚いたようにこちらを見た弟に、努めて普段通り話しかけた。
「翔君。お母さん達、心配してるよ。もう帰ろ……?」
「何しに来たんだよ?」
 不機嫌に言い返す彼の周囲に、似たような男の子達が集まってくる。派手なメイクと服の女の子も。
「ちょっとぉ、このおねーさん、誰よ〜?」
「うひょー、また新しい女かよ。見るからに年上じゃん、やるねぇ。紹介しろよ!」
「翔のやろー、一人くらい分けてよ」
「うぜーんだよ、お前ら、ちっとは黙ってられねーのかよ」
 むっつり押し黙っていた翔平が、急に煩さそうに声をあげると、乱暴に両手をついて立ち上った。
 ……今の、翔平が言ったの?
 わたしは耳を疑った。およそいつもの翔平らしくなかったからだ。
「行くぞ、沙夜」
 その態度は弟というより、まるで横暴な彼氏だった。呆気にとられるわたしの手を掴むと、店を出てずんずん歩いていく。

「……今の何よ?」
 商店街が途絶え、周りに人影がなくなるや、わたしは弟の手を振り解いて、あきれたように問いかけた。
「翔クンたら、どうしたのよ? 最近ちょっとおかしいよ?」
「別に。もともとだし。気のせいだろ」
「あっ、わざわざ迎えに来てあげたのに、そういうこと言う?」
「頼んでねーよ。一人でさっさと帰れよ!」
「待ちなさいよ、翔クン!」
 そのまま、家とは反対方向にズンズン歩いていってしまう。さらに追いかけると、彼は小さな雑木林の公園に、すたすたと入って行った。子供の頃に、彼がよく遊んだ公園だ。


 怒っているような、迷惑そうなあの態度。これ以上追いかけるのもためらわれた。もう姉の出る幕などないのかもしれない。でも……。
 やはりこのまま放って帰ることもできなかった。彼の仏頂面の裏に、泣き出しそうな子供の顔が見えたような気がしたから、なおさらだ。
 今、きっとあのベンチにいるに違いない。まだ子供の頃、叱られた翔平がよく一人で座っていた。そこはわたしと翔平しか知らない……。




patipati

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16/04/18  更新

【金木犀の咲く夜に】、実に6〜7年ぶりくらいの再掲載です。
ファイルも全部作り直しなので、これから週に2〜3回くらいのペースで
更新して行きたいと思います。
御存知の方も懐かしい二人との再会、しばし楽しんでいただければと思います。
よろしくお願いしますね〜。