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「それで?」
 コークのようなものの入ったグラスを二つ、テーブルに置くと、翔平はいきなり無造作に問いかけてきた。
「この前の家での様子から察するに、その見合いだって、あんたのお袋さんの強引なお勧めだろ?」
「……ねぇ、翔君、どうして?」
 それには答えず、さっきから繰り返されるたびに気になっていることを聞き返した。
「『あんたのお袋さん』って、そんな言い方するの? お母さんじゃない、翔君にとっても」
「……いや、それは違うな」
 ふっと皮肉に笑った口から意外な言葉がこぼれた。
「悪いけど、俺の記憶にある限り、あの人が母親だったことはないね」
「そんな! どうしてそんなこと言うのよ?」
 吃驚して身を乗り出したわたしに、翔平は少し考え込むような目になった。
「まぁ、はたで見てる分にはわからなかったかもな。人前で母親役を演じるのは、ほんとにうまい人だし……。けど、俺があの人から『母親の情』って物を感じたことは一度もないね。直接ぶつかっても、いつも仕事とか色々理由をつけられて……。結局、俺のことなんかどうでもいいんだってわかったのは、中学あたりだったっけ。おい、そんな顔するなよ。変な所で深刻になるなって……」

 ショックを受けて沈黙したわたしに、微笑みかけた顔はとても優しかった。
「今となってはどうでもいいんだ。とやかく言う気なんかなかったのに……」
「どうでもいい……はずないでしょ!」
 そんなに傷ついていたのに……。だからあの頃、あんなふうになっていたのだろうか。
 思い返せば、確かに母と翔平の間に妙なしこりがあるように感じたことは何度もあった。けれど、ここまで二人の間に決定的な亀裂が入っていたなんて、全然気付かなかった。きっと父も知らないに違いない。
 わたしは夢中で両手をのばし、彼の手をしっかりと握り締めた。

「だから……、だから翔君、アメリカに行っちゃったの? 高校のとき? そして、その後ずっと帰ってこなかったのも、そのせいだった? うちの居心地が悪いから?」
「いや、それはまた別の問題が絡んでる。……って、あんた、とっくにわかってると思ってたけどな。ひょっとして何も気付いてなかった?」
 翔平の顔がさらに和んだ。ちょっと呆れたようにため息をつく。
「それじゃ八年前のことも、お袋さんから何も聞いてないんだな? はっ、さすが、世間体の鬼みたいな人だよ。『我が家の恥』には実にお口が堅いことだ……」
 どきりとする暇もなく彼が動き、わたしはソファーに仰向けに押し倒されてしまった。

「なっ、何するの? もう、冗談はやめてってば!」
 びっくりして見上げるわたしの顔を覗き込み、彼はもう一度わたしにのしかかってきた。シャツ一枚隔てただけで、わたし達の身体が再び密着する。目を見張るわたしの唇に、熱い唇が重なってきた。けれど、さすがに今度ばかりは押しのけようと懸命にもがく。
「んっ、やだ……、ちょっと……、真面目に聞いてるのよ! わたしは!」
 今度こそ必死で頭をそらせ真顔で怒った。翔平はわたしの脇に片腕を突いて、またふっと笑う。
「そんな顔するなって。実演するのが一番手っ取り早いだろ?」
「実演? 何の実演よ?」
「あのまま、あの家に二人でいたら、どうなってたか……」
 絶句し、ついで真っ赤になったわたしを覗き込んだ目が、おかしそうにきらめいた。
「あのまま、あの家に二人一緒に居たら、俺、必ずまたあんたを抱いてたよ。それこそ何度でも……。わかってたんだ、自分でも。あの後ですら、あんたは相変わらず無防備だったしな」
「翔……」
「だから、あんたの傍を離れた。あんたをもっと傷つけないようにするにはそれしかなかったんだ。あの頃の俺はまだ全然ガキだった。どんなにあがいてもどうにもならなかったから……」

 それは意外すぎる告白だった。一瞬、またからかわれているのかと思ったほど。けれど、彼の表情の裏に、一瞬切なさがよぎったような気がして何も言えなくなった。またもや、心臓が音を立てて打ち始める。
 あの頃、そんなふうに思ってくれていたの? わたしのこと? ぜんぜん知らなかった。

「さて、それじゃ今度はそっちの番だ」
 えっ? と目を見開いて見上げたわたしの身体を引き起こし、翔平が畳み掛けてきた。
「さっきの俺の質問に、まだ答えてもらってないな。どうしてあんた、ここに来たんだ? そんなデートのすぐ後でさ」
「どうしてって言われても……」
 自分でもよくわからないことを、人に説明するのは難しい。ソファの背に頭を持たせかけ、考える振りをする。
「だから……、まだちょっと時間があったし、翔君、すぐ帰っちゃうでしょ、NYへ……。そう思ったから、ちょっと会いにきたんだけど」
「へぇ、『ちょっと会いに』ねぇ。それにしちゃ、ずいぶんと……」

 皮肉に笑いかける顔に、わたしはそっと手を伸ばし、両手のひらで包み込んだ。
 もう潮時なのかな……。はっとしたように黙り込んだ彼を見て、諦めに似た気持でそう思った。今、心の底から湧き上がってくる泣きたいくらいの思いを、ゆっくりと言葉にしようとする。

「ううん、抜けてるわね。一番大事なことが……」
 続きを促すように、翔平の目が熱っぽく見つめ返してくる。


 そのときだった。何の前触れもなく、部屋の内線電話が鳴り始め、わたしはビクッとして振り返った。
 翔平が苛立たしげに立ち上がった。電話に近付くと、乱暴に受話器を取り上げる。
「はい、何ですか、こんな時間に……。え……?」
 フロントらしい。思い切り不機嫌な声で話し始めた翔平が、すぐに言葉を途切らせた。
 わたしの方にチラッと向けた顔が、心なしか強張っている。

「参ったな……。いや、わかりました。ご迷惑をおかけしまして、どうも……。それじゃ、そのようにお願いします」
 受話器を置くなり、彼は急くようにわたしを促した。
「沙夜、バスルームで自分の服に着替えろ。おふくろさんと親父がここに来てる。すぐ上がって来るぞ」

 次の瞬間、わたしはベッド脇に散らばったままになっていた自分の服をかき集めると、バスルームに飛び込んでいた。



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16/05/26  更新