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 意外な言葉にぎょっとして、わたしは翔平を見た。彼の唇に嘲笑とも取れる皮肉な笑みが浮かび、いっそう慌ててしまう。
「本当よ、翔君。何か誤解があったみたい……」
「まったく、幾つになっても子供みたい。これからはそれじゃ困るのよ!」
 わたし達の空気などお構いなしに喋り続ける母にうんざりし、わたしも強く言い返した。
「お願いだから、そんな言い方やめてくれない? わたし、もうすぐ三十なのよ。とっくに、自分でしたいようにしていい歳じゃない?」
「親にそんな物言いができるなんて、急に偉くなったものね」
 確かに、この母の性格を知っていたから、今まで当たり障りがないよう過ごしてきたのは、わたし自身だけど……。
 その時、ずっと黙っていた翔平が、混乱した場をさえぎるように落ち着いた声で言った。
「お取り込み中、申し訳ないけど、みんな、そろそろ帰ってもらえないか? 明日も予定があるんでね。もういい加減で休みたいんだ」
「翔……君……?」
 冷ややかな眼差しのまま、彼は窓際へ歩み寄ると眼下に広がる夜景を黙って見下ろした。その背中は、さっきと打って変わって近寄りがたい。おそるおそる、もう一度呼びかけても返事さえしなかった。
 結局、両親に促されるまま、その場から退出せざるを得なくなってしまった。


 きっと、うんざりしたんだ、翔君……。この家族に。わたしも含めて……。
 父の運転する車の後部シートに座って、じっと窓の外に目を向けながら、わたしは唇を噛み締めていた。
 さっきの冷たい顔。どう考えても、もうこれで終わり、と結論を出すしかないようなあの態度……。
 まぁ、無理もないけど。
 わたしは深いため息をついた。
 これまで、自由気ままに一人でやってきた彼にとって、こんなわずらわしい家族関係を見せ付けられては、たまったものではないだろう。普段から慣れているわたしですら、そう感じたくらいだもの。
 他に行く場所があれば、どこでもいいから逃げ出したかった。家になんか帰りたくもない。
 けれど、親に反発して、傷ついた女子高生みたいにその場を飛び出すには、わたしはもう歳を取りすぎていたし、理性が勝ち過ぎていた……。


 家に着くや、父も母も無視して自分の部屋に駆け込み、ベッドに突っ伏した。今、翔平はどんな思いでいるんだろう。
 母が余計なことを言ったせいで、杉浦さんのことまで、あらぬ誤解をされたような気がする。わたしの心はさっきから乱れっぱなしだった。
 あんなふうに抱き合って情熱を分かち合ったすぐ後で、まさかこんなことになるなんて……。

 翔平に電話してみようか。
 そう思い立つや、跳ね起きてバッグを開いた。途端に重大な事実に気付き、身体から力が抜けてしまう。
 携帯を、彼のベッドに置き忘れてきたのだ。



  ◆◇◆  ◆◇◆



 完全に寝不足のひどい顔で下りていくと、父と母はまるで何事もなかったように、朝食を取っていた。
 食卓について、味噌汁と白いご飯を前にしたとき、とうとう我慢できなくなった。わたしは唐突に尋ねていた。
「ねぇ、お母さんとお父さんと翔君のお母さん、昔、どういう関係だったの?」
 その場の空気がさっと固まった。それでも今は引き下がるつもりはなかった。

「いきなり何を言い出すの! そんなことより、早く食べてしまってちょうだい。今日のお昼に杉浦さんにお会いする約束なのよ。色々忙しいんだから」
「そんな約束、キャンセルすればいいでしょ! 頼んでないし、行かないわよ、わたしは」
「もう、この子は……。自分の問題なのに」
「今のわたしには、夕べのお母さんの言葉の方がよっぽど深刻な問題なの。どういう意味か、いい加減に教えてくれてもいいでしょう?」

 呆れたように頭を振る母を、わたしはひるまず見返した。どうやら翔平のことで、この話は避けて通れそうにない。それなら、さっさとけりをつける方がいい。
 傍らで小さく着メロが鳴った。ずっと居心地悪そうに新聞を開いたり閉じたりしていた父が、慌てて携帯を取り上げる。
 何か意外な電話だったらしい。驚いたように二言三言返事をして通話を切るなり、咳払いして立ち上がった。
「急用ができた。ちょっと出かけてくるよ」
 これ幸い、とばかりにそそくさと外へ出て行く父に、母が約束の場所の念を押す。わたし達は二人になると、しばらく黙っていた。

 やがて母が条件を出してきた。
「それじゃ、その話をしたら、杉浦さんに、今日もう一度会ってくれるわね?」
 それはちょっとずるいやり方じゃない? と言いたかった。でも、どうせ杉浦さんには、はっきりお断りしなければいけないのだから、と思い返す。
 わたしは頷くと、朝食の箸を取り上げた。母もようやくわたしの前に座ると、少し遠くを見るような目になった。

「三十年前、わたしが保険の仕事をしていたことは、前に話したかしら?」
 また頷くと、母は一つこれ見よがしなため息をついた。
「わたしがお父さんと知り合ったのは仕事の関係だったの。そして、翔平の母親……千原香織、彼女も同じ職場に勤めていたわ。わたしより一年後輩だったけど、立場を何とも思っていないような大きな態度の人でね。上司もよく苦笑していたものよ。そして、わたしが都庁で知り合ったお父さんと、お付き合いし始めたのも、この頃だった……」

 何となく察しがついてきて、わたしは内心苦笑した。でも、そのまま長い話を黙って聞いた。だんだん感情的になりながら、母が語ってくれた昔話によれば、結局、別のことで父と接触し始めた千原さんが、父を『いきなり寝取った』のだそうだ。母はその点を「ふしだらな人だから」と容赦なくこき下ろした。そして、結局父は、千原さんと結婚し、母とは自然消滅になったらしい。

 その後、母も親戚の世話でわたしの実の父と結婚した。だが、母は倉橋の父にずっと心を残していたらしい。そして母の性格も手伝ってか、最初の結婚はすぐにギクシャクしていった。わたしはまだ子供だったけれど、子供の目にも二人が不幸そうだったのを覚えている。  実の父が暴力を振るい始めたのが原因で離婚したとき、母はむしろほっとしたように見えた。

 そこまではまだ理解できた。けれど、あの母親だから息子も同じだ、やっぱり血は争えない、と、自分の恨みをそのまま翔平に向け、理不尽な非難を始めたので、次第に腹が立ってきた。
 その前に、彼の気持を少しでも考えたことがある? 
 反論しかけたとき、突然母の話は八年前の出来事に飛んだ……。



patipati

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16/06/03  更新