〜〜 ニューヨークの冬景色 〜〜


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 日本から飛行機に乗って旅をすること、マイナス13時間と5分……。

 緊張と時差ぼけの頭をかかえて、わたし、倉橋沙夜はニューヨークのケネディ国際空港に立っていた。13時間も乗った飛行機の出発時刻と到着時刻がほぼ同じだなんて、地球を半周したんだなと妙に納得する。
 しかも、友達とのツアー旅行ならともかく、一人でニューヨークまでやって来て、おまけにここで暮そうなんて、わたしの二十九年の人生からは考えられないことだ。こんな一世一代の冒険に踏み出すことになったのは、弟・翔平のふい打ち帰国のおかげだった。
 もしあの時、彼が帰ってこなければ、今頃わたしは結婚をせっつく母に抗しきれず、あまり好きでもないお見合いの相手と婚約していたかもしれない。
 八年ぶりの翔平との再会が、わたしの人生を文字通り百八十度変えてくれた……。

 四歳年下の翔平とわたしは、つい最近まで、ただの疎遠になった義理の姉弟だった。正確には、もう少し色々あったけど。その記憶も複雑な思いも全てきっちり心に封印して、長い間、何もなかったように暮らしてきた。
 義理とはいえ、たった一人の弟を男の人として見るなんて、上手く行っている家族関係を壊すことのような気がして、怖かった。でも心の底では、多分ずっと彼のことを思い続けていたと思う。
 そんなわたしの殻をつき破ってくれたのは、翔平自身の予想外に大胆で率直な態度と言葉。戸惑いながらも、わたしの中で、彼への思いが何より大切なものになっていった。彼のおかげで、やっと自分に素直になれた気がする。

 “待ってるからな……”
 電話で、幾度も繰り返してくれた言葉をナビに、わたしは今、太平洋を越えて来た。



◇◆◇



 日本人も結構いると聞いていたのに、ゲートを出る頃には、右も左も背が高くてクマみたいな外人さんばかりになっていた。
 ああ、ここでは自分が『外人』なんだっけ。……とにかく、到着予定時刻はとっくに過ぎている。迎えに来ているはずだけど、もし見つからなかったらどうしよう。
 だんだん心細くなってきて、遠くまで目を凝らし、一生懸命探しているとき、ふいに背後から「沙夜!」と呼ぶ懐かしい声が聞こえた。心底ほっとして、笑顔になる。
 「翔君、遅いー!」
 言いながら振り向くのとほとんど同時に腕が伸びてきて、気が付くと、わたしは彼のコートとマフラーに顔をうずめていた。
 わわっ、いきなりですか! 
 焦って顔を上げた途端、照れくさそうな笑みを浮かべた翔平の整った顔が間近に近付いてくる……。
 ま、またしても人前で!
 慌てながらも、目を閉じてそのキスを素直に受け入れられたのは、ここがアメリカだから……。


「へぇ、日本車なんだ!」
 迎えに来た翔平の車は、彼らしいブラックのクーペ。左ハンドルの車に乗るのはもちろん初めてだ。
 彼はにやっとして「やっぱり、日本車はいいからさ」とか言いながらドアを閉めると、何かを確認するようにこちらに身をかがめてくる。
 ん、何? 大丈夫だよ……。そう言いかけた途端、頬に手がかかり、今度はしっかりと唇を奪われていた。さっきの挨拶代わりとは全く違う。熱い舌が唇を割って入り込み、酔わせるように口内を這いまわってから、わたしの舌を捉えて吸い上げてくる。
 二人きりになるのを待ちかねたような、本気のキスだった。ぼぅっとしながら、わたしも彼の肩に腕をまわしてしがみつく。キスが激しくなるにつれ、わたしに回された腕に一層力がこもった。痛いほどの抱擁に、待っていてくれた彼の思いが伝わってくるようで、身体が熱くなる。

「沙夜、来たんだな。本当に……」
 しばらくしてようやく顔を上げて、翔平が呟いた。少し息を切らせているわたしを見つめる瞳がとても優しい。どきどきしながら見返すうちに、何だか胸がいっぱいになってきて、涙まで浮かんできた。

 うん、来たよ、翔君。
 頑張って、よかった……。


◇◆◇


 運転する彼の横顔は、日本で会った時よりはるかにリラックスして見えた。わたしはと言えば、初めて見るイーストリバーの光景に興奮し、まだ入ってもいないのに、と、翔平に呆れられる。
 昼間から渋滞気味のクイーンズ・ボロー・ブリッジをようやく越えると、そこは憧れのマンハッタン。車は滑るようにミッドタウンに入って行く。

「前にあるのがセントラルパーク、この向こうに行くとブロードウェイだ。あんたも名前くらいは知ってるだろ?」
 激しく頷いてはお上りさんよろしく、目を皿のようにして見入っているわたしに、翔平がちょっと仕方なさそうに説明してくれる。
「すごい、すごーい」と、いかにも日本人らしく連呼していると、またゆっくり案内してやるからさ、今日は落ち着くのが先! と、しっかり釘を刺されてしまった。
 実際に見たニューヨークの街は、思い描いていた大都会のイメージとは少し違っていた。裸木になった街路樹に古い街灯、その向こうに並ぶ建物は、当然とても欧米的。でも、暖かい人の息使いが感じられて、なんだかほっとする。


 引っ越したばかりだと言う翔平の新しいアパートは、ダウンタウンにあるらしい。由緒ありそうな建物や石畳の路地と最新のビル群が混在した街並を、思わず携帯で撮っていると、翔平がまたちょっと笑った。
「これからずっとここで暮らすんだからな」
 観光に来たわけじゃないの、わかってるよな? とからかうように言われ、やっと少し落ち着きを取り戻す。
 とても不思議な気がした。誰でも一度は憧れる世界の都市ニューヨーク。これから本当に、ここで暮らしていくのだろうか。まだ実感が沸かない。翔平はもう、こんな気持はとっくに忘れてしまったんだろう。傍らの弟をちらっと見て思う。

 とりあえず飯にしようと言って、車を止めたのは、大通り沿いのエスプレッソバーの前だった。
 メニューは当然全部英語。目を点にしたわたしに代わって「この辺でいいだろ?」と注文してくれる。エビのサンドイッチとサラダ、そしてアメリカンコーヒー。そのサイズにまたびっくりする。

 吐く息が白く凍えた。やっとたどり着いた高層アパートというか、マンションの前で車を停めると、制服を着たドアマンさんに手伝ってもらい、わたし達はトランクと荷物を部屋まで運んだ。
「東京より寒いね。これで、何度くらいなの?」
「さぁ、二十度くらいかな?」
 二十度? 嘘でしょ! こんなに寒いのに!?
 驚くわたしに、彼がぶっと吹きだした。失礼にも声をあげて笑ってから、わたしの頭をぽんと叩く。
「こっちは華氏だから。摂氏で言えば、マイナス4度か5度ってとこかな。あ、ちょっと……」
 相変わらず生意気な弟から完全にお子様扱いされて、わたしはむっとした。



patipati

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16/06/27  更新
短いですが、二人のその後の雰囲気などを、
少しの間お楽しみいただけたら嬉しいです☆