〜〜 ニューヨークの冬景色 〜〜


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 でも本当に? もう日本には帰らないつもりなの?

 隣の翔平を思わず見やる。ん? と見返され、何でもないの、と急いで見ていない本のページをめくった。
 今の彼なら、アメリカで一生でも十分やっていけるだろうな、と素直に思う。世界金融の中枢、ワールドファイナンシャルセンターに職場があるのに、どうして日本で仕事を探したいと思うだろう。それに、日本のあの家も、彼にとって、いい思い出なんかないのかもしれない。帰るなんて、できない相談よね。
 でも、わたしは……。彼とはレベルが違い過ぎる。本当にここで暮らしていけるんだろうか。実際に来てみると、一段と不安になる。
 結婚式までに、一度しっかり話し合わなくちゃ。

 結婚式……かぁ。

『いい加減、一人の男として見てくれても……』
 さっきの翔平の言葉と表情が蘇り、慌てて頭を振った。もちろん、わたしだってそのつもりでいるのに。そうでなければ、あんな風に抱かれたりしない。
 けれど、彼がずっと弟だったことも事実な訳で、わたしの中では、まだ弟としてのイメージの方が強く残っている気がする。それが、つい出てしまうようだ。
 思わず小さくため息をついた。彼が隣からじっと見つめていることに気付いたのは、かなり経ってからのことだった。


 長い待ち時間の末、無事にわたしの滞在手続きを済ませると、翔平は明らかにほっとした表情になった。
 それから携帯ショップに行って登録した携帯をいじってみると、日本と同じように使える。感動し、当たり前だろ、とさらりと受け流す翔平に笑顔を向けた。本気でかなり安堵している。やっぱりこれが一日でも正常に使えないのは不便だったし、手持ち無沙汰で仕方がなかった。
 そうこうしているうち、早くも夕暮れ時になっていた。そろそろ夕食にする? と、おしゃれなレストランに連れて行ってくれる。
 普通の店、と翔平は言うけれど、マンハッタンの街角で、フラワーアレンジメントとキャンドルに飾られた店内は、わたしの目には十分ゴージャスに映る。
 通りを行きかうニューヨーカー達を眺めながら、ディナータイムをゆっくりと楽しんだ。

 本当に楽しかった。でも、あちこちで会話する翔平を見ては、嫌でも現実が分かってきて、やっぱり気が重くなってくる。わたしに話しかけられてもまったく答えられなかった。もう情けないったら!
 来る前にもっと真剣に英会話スクールに通っておくべきだった、と後悔しても後の祭り。

 それでもまた夜になって、ベッドで彼に抱かれると、午後に感じた迷いなんか、否応なしにどこかに吹き飛ばされてしまうのだけれど……。


◇◆◇


「これ、俺がこっちに来た頃に使った英語教材。暇な時間に好きに使って」

 翌朝。
 出勤間際にテーブルに本やCDをどさどさっと山のように置いて、翔平が言った。何これ? と目をパチクリさせると、ちょっと笑って優しく引き寄せられた。
「俺もさ、最初はそうだったんだ。大丈夫、時間はいくらでもあるんだし、ゆっくりと慣れてくれればいいから。おっと、それじゃ行くけど……」
 昨夜交わした、数えきれないキスのせいで、少し腫れぼったくなっているわたしの唇にもう一つ優しいキスを置いて、彼は心配そうにわたしを見た。
「なるべく早く帰るから、何かあったらすぐ電話して。外に出るなら、昨日教えた店くらいにしろよ。今は絶対、それ以上行くなよ!」

 しつこいくらい言い置いて、ドアが閉まると、わたしはほっと吐息をついた。朝食の後片付けを済ませてから、甘い気持でその中の一冊を取り上げる。

 ごめんね、翔君。昨夜、あんなこと言ったから、きっと心配させちゃったんだね。
 彼の腕の中で夢中になって達した後、ぽつりぽつりと交わした会話を思い出して、少し赤面する。


『ねぇ……、言おうと思ってたんだけど……。あの……、しばらくは、予防した方がいいんじゃない……?』
『そう? すぐに結婚するんだし、俺は別にかまわないけどな。むしろ早く……』
 お願い、翔君! まだちょっと、自信がないの!
 わたしの声のトーンを聞き取ったように、彼はわたしをぎゅっと抱き締めて、約束してくれた。
『わかった。沙夜がそうしたいなら……。けど、もし、もう遅かったらどうする?』
『……そっか、そうよね』

 返事の変わりに小さくつぶやいて目を閉じてしまった。触れ合う肌の熱と強い視線を感じていたけれど、答えるのを拒むように、彼の肩に額を押し当て、顔を隠してしまった。

 わたし、大丈夫かな……。翔君みたいにやっていけるのかな……。
 意識と無意識の狭間で、つい弱音というか、本音を呟いてしまったような気がする。それを気にかけてくれたのかも。そう思うと、やっぱり嬉しい。

 うん、頑張ってみるからね、翔君。
 一人ガッツポーズをしてから、言われたように、とにかく英語を聞き流して半日過ごした。でも試しにテレビニュースをつけても、アナウンサーの話す英語は早口でとても聞き取れない。
 結局、ネットで日本の情報を見たりして、それも飽きると外に出たくなった。ご近所探検のつもりで、少し出かけてみようかな。

 外は今日もマイナス気温。ダウンジャケットを着て、マンションから出たところで管理人さんに話しかけられた。どうしたの? と聞かれたみたいなので、出かけます、と英語で答えてみると「OK」とウィンクしてくれる。通じたとわかり、ちょっと嬉しくなって歩き出す。でも、わたし一人でどこかに行けるわけでもないと、すぐに気が付いた。

 角にあるこじんまりしたコーヒーショップを見て、ここは大丈夫だな、と言っていたことを思い出す。よし、こういう気分の時はコーヒーもいいよね。これなら一人でも注文できそうだし。
 思い切ってドアを押して入った途端、『サヤ?』と声をかけられた。
 え? と顔を上げると、先日会ったステファニーさんが、ニコニコと笑顔で近付いて来るのが見えた。



patipati

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16/07/16  更新