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 上がり口には、家族の靴に混じって見慣れない男物の靴があった。それも手入れの行き届いた高級ブランド品。
 その場で腕組みして、わたしは賑やかな応接間の方をにらんだ。テレビの音とご機嫌そうな父の声に混じって、確かに男性の低い声が聞こえてくる。
 さっきの携帯メール。あまり使わない父が珍しいと思ったら。もしや、先週の見合い相手が、いきなり押しかけて来たとか?

 父の職場絡みで断りきれず、会うだけだから、と念を押して出かけたお見合いの席。
 相手は三十過ぎの一流大卒の公務員だった。エリートという感じはプンプンしたが、話しても全然しっくり来ない。すぐに断るつもりだったのに、先方の親はもとより、相手にまで気に入られてしまったらしい。
 本当にお綺麗ですわ、お歳にはとても見えませんわ、などと言う、褒められているのかけなされているのかよくわからない賛辞を、笑みを張りつけて聞いているうちに、なぜか話が進んでしまった。
 罠にはめられた気分で帰ってきた後、ちょくちょく電話がかかってくるようになった。我ながら優柔不断だと思いつつ、ノらない会話を数回重ねるうち、また会いましょう、という展開になり困っていた。
 その矢先にこれだ。やっぱり、うちの場合は……。
 ついつい、またため息が漏れてしまう。再婚するまで苦労した母の口癖は『世間様』だし、何よりのモットーは『常識的に暮らすこと』。
 だからって、気乗りしない相手と無理に付き合うほど結婚を焦ってもいないのに……。

 とにかく、今夜はあまり人に会いたい気分じゃない。いっそ、もう一度出かけてしまおうか。
 回れ右してドアノブに再び手をかけたとき、キッチンから母の声が飛んできた。
「沙夜、何をしてるの? 早く着替えて手伝ってちょうだい! お父さんも翔平さんも、さっきからお待ちかねなのよ」
 意外な名前を聞き、わたしは「えっ?」と固まった。

 翔平が帰ってきた……? アメリカから? 
 まさか……。あり得ない。八年も向こうに行ったきりだったじゃないの。

『翔平』と聞くだけで、いまだに心臓が跳ね上がるなんて、親にも本人にも絶対に気取られてはならなかった。

 仕方なく、わたしは薄手のコートを脱いでキッチンに入った。冷蔵庫を開き、流している長い髪を払いながら、ピッチャーのウーロン茶をコップに注ぐ。テーブルを見て、わぉ、と感嘆の声を上げた。
「すっごいご馳走! えーっと、今日はお父さんの誕生日だっけ?」
「翔平さんが久しぶりに帰ってきたのに、それはないでしょう? 大体、あんたは帰ってくるなり……。それじゃ高校の頃とちっとも変わらないじゃないの! 翔平さんはしばらく見ないうちに本当に立派になったのに、二十九にもなってそんなじゃ、母さんは恥ずかしくて。少しは身を入れて、将来を考えたらどうなの?」
 いかにも情けないという顔で、お決まりの小言が始まった。わたしはすぐさま翔平の話題を盾のように構える。
「それより、翔平が帰って来たの? ゼンゼン知らなかった! 何の連絡もなしに、いきなり来ちゃったわけ?」

「どうもすみませんねぇ。『自分の家に』連絡もせずにいきなり帰ってきまして……」

 ふいに背後から、嫌味っぽく強調する低い男の声が聞こえた。
 驚きのあまり、わたしは手からコップを取り落としてしまった。

 足元でガラスが砕ける音がして、わたしは慌てて床にしゃがみ込んだ。
「あーあ、相変わらずだな、『姉さん』は……」
 失礼にも、くっくと笑いながらキッチンに入ってきたのは、ラフな開襟シャツにスラックススタイルの翔平だった。
 変わっていない……。ただ髪をメッシュにしていた頃と違って、軽くウェーブをかけた長目の髪を自然に流し、きつかった目も、昔より穏やかになっている。おまけに、スポーツでもやってたのかな、と思うような引き締まった体つき……。

 馬鹿ね、何考えてるのよ。
 ぼけっと見上げているのに気付き、慌てて目をそらした。そのとき、八年ぶりのでかいガタイが、急にわたしの隣にかがみ込んできた。わっ! と思わず一歩下がる。
 にしても……。
 もともと顔立ちは整っていたけど、なんか、めっぽうイイ男になったなぁ。
 破片を拾う横顔を盗み見ながら、奇妙な胸の痛みとともに思っていると、彼がにやっと笑いかけてきた。
「俺の顔、やけに熱心に見るんだな。ますますいい男になったんで見とれる?」
「べ、べ、別に……、弟に見とれてどうするのよ! それに自分で言う?」
 慌ててどもった挙句、ムキになって反論し始めたわたしの手元に、すっと彼の手が伸びてくる。
「ここにも落ちてる。よく見ないと危ないから」
 いや、あんたの方がよっぽど危ないから!
 心の中で思わず叫んでしまう。

 イキナリ目の前に迫られたのは大フェイントだった。心の準備がまったくできていない。

 翔平の全身から、アメリカ帰りの自信とでも言おうか、妙な男っぽさが溢れていた。二十五歳とはとても思えない。どぎまぎしながら破片を拾い上げた途端……。
「あっつ……」
 ああ、やってしまった。人指し指の先から血が流れてくる。
「やっぱり変わってないな。相変わらずどんくさいね……」
 四歳も上の姉を『どんくさい』呼ばわりした相変わらず生意気な弟は、次の瞬間、わたしの手を掴むと、切れた指を口元に持っていった。はっとした途端、流れる血が舌先でそっと舐め取られる。
「何するのよっ」
 ぎょっとして囁くが、へーゼンとしている。
「何って、血が出てるからさ。まだ出てる。バンドエイド貼ったら?」
「そうじゃなくって……」 
 アメリカならいざ知らず、この倉橋の家ではあるまじき行為だ。わたしは反射的に掴まれている手を引っこめた。
 その一瞬。忘れもしない、濡れたような黒い目がわたしの胸元で留まった。そこに触れられたときの熱い唇の感触が蘇り、頬がかっと火照る。


 背後でまた何かを落とした大きな音がして、わたしは飛び上がった。弟がすました顔で立ち上がり、振り返る。
「……大丈夫ですか? お母さん」
 だが、どうやら今のを目撃したらしい母の声は、裏返っていた。
「ほ、本当にごめんなさいね、翔平さん。こ、この子、昔とちっとも変わらないでしょう? 沙夜っ、ぼんやりしてないで早く掃除してしまってちょうだい。翔平さん、悪いけど、このお皿とビール、向こうに運んでくださる?」
「もちろんですよ」

 翔平はもう一度ちらっとわたしに目を走らせ、まるで面白がっているような含み笑いを浮かべると、リビングに戻って行った。



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16/04/26  更新