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 何、あれ! まったく可愛くない! 姉をからかい過ぎよ!
 かなり混乱しながら、わたしは母を見ないようにして、引き出しからバンドエイドを出すと傷に貼った。


「何、呆けてるのさ?」
 久しぶりの弟を交え、家族そろっての一家団欒タイム。本当に何年ぶりだろうって、わたしが大学の頃以来かもしれない。
 すきやきの鍋を前に、わたしは目の前の生意気な男にグラスをぐいっと突き出した。

「べっつにぃ。あんたも昔はかわいかったのになぁって、しみじみ思ってただけ。ほら、ついでよ、翔クン」
 子供の頃呼んでいたように呼びかけると、翔平はむっとしたように顔をしかめて、ビールをわたしのグラスに注ぎ足した。
「若い女の子があまり飲みすぎるのは見っともないものよ」
 世間体と常識の塊のような母が注意するが、気にもとめず、わたしは冷えたビールを飲み干した。
「どうせもう『若い女の子』じゃないから、いいのー」
「何言ってるの! そんなふうだから、二十九にもなってお嫁の行き先もないんです。せっかく三田の小母さんが、相手を寄りすぐって紹介してくださったんだから、今度こそ身を入れて……」
 黙って食べていた翔平が突然顔を上げた。強い視線を感じた。母も感じたのだろう。翔平とわたしを見比べて、黙り込んでしまった。
 食卓が急に気まずい沈黙に包まれる。どうしたんだろう? 気付いていないのは、いい気持ちでテレビを見ている父だけのようだ。

 わたしが不思議そうに、母と翔平を見たときだった。何気なく壁の時計を見上げた翔平が、かたんと箸を置いた。
「それじゃ、僕はそろそろ……」
「なんだ、もう帰るのか? まだ鍋も半分残ってるじゃないか。何年ぶりかで帰ってきたんだから、今夜ぐらいゆっくりしていけばいいだろう?」
 熱心に薦める父とは対照的に、なんとなく固まっている母を目の端で捉え、翔平は優しく父に微笑み返した。
「ん、ごめんよ、父さん。実は、明日の会議で使う資料を作らないといけないんだ。一式全部ホテルに置いたまま来たからさ。悪いけどもう失礼するよ。それじゃ、お母さん、手料理ご馳走様でした。久しぶりで、とてもおいしかったですよ。『姉さん』も、それじゃまた……」
 わざとらしく『姉さん』と強調しながら、如才なく立ち上がった翔平を見上げ、わたしはほろ酔いの頭を必死で働かせた。
「えーっと、何? 会議? それで帰ってきたの? アメリカからはるばる?」
「お母さんから聞いてなかったかね? 一週間ほど日本支社に出張で帰ってくるって。そのうち、こっちに転勤になるかもしれないぞ」
 父が嬉しそうに言った。そんなこと初めて聞いた。母は困った顔をしている。
「あら、言ってなかったかしら……。嫌ねぇ、最近物忘れするようになって」

 ニューヨークにいるはずの翔平が、どうして今夜家にいるのか、という疑問は、母の小言攻撃に合い尋ねる前に消えてしまっていた。なるほど、そういう訳だったのか。
 黙ってジャケットを羽織る弟に、父が畳み掛ける。

「一週間、ずっとホテルに泊まるつもりか? どうしてうちへ来ないんだ?」
「そうですよ。翔平さんの部屋だって、まだ残してあるのに」
 心なしかよそよそしい口調の母に、翔平は淡々と答えた。
「まぁ、向こうのほうが、会社にも近いですからね」
「ホテル代が勿体ないなぁ。わたしなら、そのお金で新しい服買いたいけど……」
 つぶやいてから、いや別にいいんだけどね、とごまかす。そう言えばアメリカのビッグな証券マンはボーナスだって桁違いだと聞いたことがある。彼もこの数年でかなりお金持ちになったんだろう……。


「あれ? これ、誰の?」
 翔平が立ち去った後、座っていた座布団の下から、見慣れぬスマートフォンがひっそりと出てきた。
「翔平のだな。さっき一度電話があって話してたから、あの時置いたっきり忘れたんだろう」
 父が眉をひそめる。
「これがないと、困るんだろう?」
「とーぜんでしょ! 証券マンが携帯忘れるなんて、あり得ないミスね」
 まだ、出て行ってからそれほど時間は経っていない。近くにいるかもしれない。ここまではタクシーもめったに来ないもの……。
 それともホテルまで届けに行く? でも、どこのホテルだっけ……?
 結局、急いで後を追いかけることにした。ここから大通りに出るには、さっき帰ってきた道を反対に戻るしかない。

 走っていくと、前方に立ち止まっている背の高い男の影が見えた。
 月明かりの下に佇み、いっぱいに花をつけた金木犀をじっと眺めている……。
 ドクン、と心臓が一つうねった。

 そっと近付いたのに、翔平は気配を感じたように振り返った。
 少し陰鬱な黒い瞳が、わたしをまっすぐに捉える。彼はゆっくりと歩み寄ってくると、わたしの目の前に立った。

「沙夜……、きっと来てくれると思ってた。待ってたんだ」
「……しょ、翔平?」

 意味不明にどぎまぎし、一歩後ずさった。それから、はっと思い出し、手にした携帯を彼の前につき出した。

「忘れ物よ。こんな大事なもの置き忘れちゃダメじゃない。ないと困るでしょ?」
「ああ、だから置いてきたんだ。沙夜が出て来てくれるかもしれない、と思った」
「それ……、どういう意味……?」
「あの家の中じゃ、何も話せないだろ? 俺達のこと……」

 わたしは神経質に舌先で唇を湿らせた。意思とは無関係に身体が急に緊張し始める。
 翔平はまた生垣越しに花をつけた金木犀の木を見上げた。その上には明るい月夜が広がっている。
「ちょうど、こんな晩だったな……」
 低い声がつぶやいた。もうわからない振りをすることはできなかった。
 あの夜以来、こうして二人きりで向き合うのは初めてだ。わたし達はずっと互いを避け続けてきた。
 なのに、どうして今になって、そんなことを言うの?

「あの晩、俺はあんたをめちゃくちゃに傷つけた……。そうなんだろ?」



patipati

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16/05/1  更新