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 小学校の頃、サッカー少年団に入っていた弟は、毎日汗だくのほこりだらけになって帰ってきた。
 お風呂と着替えを準備してやり、宿題を見てやり、母が遅くなるときは、簡単な食事も作った。歳の割に大人びた子で、あの頃からときどきドキッとするような、男っぽい表情を見せることがあった。
 彼が中学に行くようになったある日、わたしが部屋の掃除をしていると、片付けていた本の間から、いかにもキュートな丸っこい字で「倉橋翔平様」と書かれた可愛い封筒が出てきた。
 へぇ、ラブレター? と思っていると、怒ったような変声期のかすれ声がして、背後からひったくられた。
「おい、勝手に見るなよ、人のもの!」
 ちょっと驚きながら「わー、知らなかった、もしかしてカノジョ?」とたずねると、「別に」と苦虫を噛み潰したような返事。
 隠さなくてもいいよー、その怒り方、きっと図星だね、と微笑んだ。そして、照れ隠しみたいに、びしばし乱暴に制服を脱ぎ始めた弟の部屋から、急いで退散した。
 その後翔平から、部屋への立ち入り禁止令が出てしまった。今後は、自室の掃除も片付けも全部自分でやるから! と、偉そうに言い切った弟は、いつの間にかわたしの背丈を越えていた。
 当時高校生だったわたしは「そっかー」と笑って、掃除機を彼の手に押し付けた。
 頑張ってね、お姉ちゃんはこれでやっと放免だね、あー、せーせーした、と言ったら、急に捨てられた子犬みたいな目をしてたっけ……。
 ううん、きっと見間違いだろう。そんな気がしただけ。でも、なんだかとても印象に残っている。


 あの日、わたしは翔平のママ代わりを卒業した。そして、翔平を男の子として少し意識し始めたのも、この頃だったような気がする。
 でも、こんな嵐みたいな感情じゃなかった。とても優しくてほろ苦い気持……。
 姉と弟のラインは、いつもはっきりとわたし達の間に引かれていたはずだ。それとも翔平にとっては、そうではなかったのだろうか?

 目を閉じると、さっきの翔平の言葉がまた蘇ってくる。

“それで、本当に忘れられたのか? あんたは”
“9021号室……。もし気が向いたら、来てくれ”

 気が向いたら……。

 でも、今度会ったら……。ホテルの部屋で二人きりになってしまったら。
 どうなってしまうんだろう、わたし達……。
 義理とはいえ、弟にキスされ、それに激しく応えてしまった自分の反応が怖かった。
 何を考えていたの、わたしは……。そして翔平はいったい何を考えているの?

 からかいとも本気ともつかない言葉を思い出すたび、戸惑いは深まるばかりだった。



   ◆◇◆  ◆◇◆



 迷っているうちに、たちまち数日が過ぎてしまった。
 あれ以来、翔平からは何の連絡も無い。電話があるたびにビクッとするが、大抵、見合い相手の杉浦さんだった。
 ついに、「今週末に、お会いしませんか」と誘われ、すぐ傍で聞き耳を立てている母に、しぶしぶそう伝えたところ、「絶対に行きなさいよ」と、何度も念を押されてしまう。
 さらに迷いが増えてしまった。とうとう仕事にまで影響し始める始末だ。

 どちらに行くとも踏ん切りがつかないでいるうちに、見合い相手から指定された週末になってしまった。
 夕方、母からあれこれ身なりに難癖をつけられた挙句、お付き合いする気満々、と思われそうな勢いで、ほとんど強制的に家から引っ張り出されてしまった。笑顔に見送られ、わたしは、迎えに来た杉浦さんの車に乗っていた。
 けれど、親がどんなに頑張っても、本人がやる気ゼロではどうにもならないと思う。高級料亭で食事しながら、上の空で相槌を打っていると、とうとう向こうがじれったそうに問いかけてきた。

「沙夜さんはこんな話、あまり関心がないようですね」
「……ごめんなさい、ぼんやりしてました。……何のお話でしたっけ?」
「僕と居るのは退屈ですか?」
「そんなことはないですけど、杉浦さんこそ……」
「それじゃ、まだるっこしい前置きはやめて、手っ取り早くホテルに行く?」

 向こうがわたしをじろじろ眺め回し、いきなりこう問いかけてきたので、激しくむせてしまった。やっと咳き込みが収まると、即答する。
「いえ、もう帰ります。ごめんなさい。今日はありがとうございました」
「やれやれ、正直な人だな」
 苦笑しながら、会計を済ませる彼には申し訳ないと思ったけれど、やっぱりほっとしている自分がいた。これでこの話は終わる。両親はがっかりするだろうけど、全くそんな気になれないのだから仕方がない。

 家まで送る、という相手を断って、最寄の駅前で降ろしてもらった。でも、このまま家に直行する気もしない。
 胸の奥で渦巻いていた葛藤が、次第に膨らんできていた。正確に言えば、夕方家を出たときから心にあった衝動だ。それが今やMAX級になって、嵐のように荒れ狂い始めていた。
 駅前アーケードのガラスに映る自分の姿を、改めて眺めてみる。
 いつも無造作に流している髪を大人っぽくまとめ、少し華やいだ化粧にゴールドのイヤリングとネックレス。そして落ち着いた雰囲気にかわいらしさをプラスしたニットワンピース。そのスタイルは平凡な倉橋沙夜をいつもよりちょっとだけ、魅力的に見せているような気がする。

 翔平が、今のわたしを見たらどんな顔をするだろう……。
 ふと、あのときに見た彼の表情を思い出し、また頬が火照ってくる。

“気が向いたら、来てくれ……”

 どうしたいの? わたしは……。
 そう自問した途端、答えはすぐさま心の中に跳ね返ってきた。
 そう、会いたいんだ。とにかくもう一度。翔平がアメリカに帰ってしまう前に。
 そのこと以外、何も考えられなくなるくらい……。

 やっぱり会いに行ってみよう。結果がどうなるかは全然わからない。でも、こんな中途半端な思いを抱えたまま、これからも無意味な日々を過ごしていくなんて、もう一日も耐えられそうにない。

 わたしは衝動的にタクシーに乗り込むと、翔平の言ったホテル名を告げていた。



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16/05/09  更新