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 辿り着いたホテルのゴージャスな雰囲気にちょっと気後れしながら、エレベーターに乗る。九階で降りると9021号室はすぐに見つかった。
 ドアを見上げて苦笑する。
 ここまで来て、まだためらってるなんて、馬鹿みたい……。
 さっきから、何度もノックしかけては、手を下ろしていた。心臓だけが狂ったように打ち続けている。

 落ち着きなさいよ。いったい何をそんなに緊張してるのよ。
 単に、弟に会いに来ただけでしょう?
 あの子だって、もう少し話がしたいだけかもしれないのに、わたしったら何を考えて……。

 自分を見下ろし、ため息をついた。勢いで来てしまったけれど、少し冷静になった目には滑稽に映る。少なくとも、弟に会いに来るような服装じゃない。
 どうしよう……。もし居たらなんて言う?
“今日、実はデートだったの。でも、もう終わっちゃった。帰りに近くを通りかかったから寄ってみたのよ、今からちょっと一緒に飲まない?”……とか?


 さんざん迷った末、やっとノックしてみた。でも反応が無い。そう言えば今日は週末だっけ。会社の人と出かけているかもしれない。
 そう思うとほっとした。やっぱり明日の午後にでも落ち着いて出直そう。
 もう一度ドアを叩いてから帰ろうと思ったとき、カチッと音がしてドアが開いた。はっと顔を上げる。
 気がつくと、わたし達は互いに見つめ合っていた。
 五秒、十秒、十五秒……。
 二人ともまだ動かないし、口もきかない。

 開襟シャツにジーンズというラフな服装の翔平は、どことなく疲れているように見えた。家で会ったときより、表情に精彩を欠いている。
 ふいに、彼の手が伸びてきた。腕をぐっと掴まれた次の瞬間、わたしは室内に引っ張り込まれていた。


 背後でドアが閉まる音がした。
 ほとんど同時に、わたしの身体に腕が回され、気が付くと翔平の腕の中に居た。
 何かを考える余裕すらなかった。いきなり抱き締められ、顔がシャツの襟元に押し付けられる。彼の心臓の鼓動が強く脈打っているのが聞こえた。思わず身を強張らせて、懸命に弟を見上げる。
「翔君……?」
 ようやく漏れた声は、ひどく頼りなく響いた。
 その位置がどれほど危うかったか思い至るより先に、少し笑みを浮かべた形のよい唇がゆっくりと近付いてきた。もはや、逆らうことさえ考えられないまま、目を閉じ、侵入してきた少しタバコの香りのする舌を受けとめる。

 やっと唇が離れたとき、わたしは大きく息を吸い込まなければならなかった。まるで、酸素不足になったようだ。心臓をバクバクさせながら恐る恐る目を開くと、翔平がうっすら微笑しながら、じっと見下ろしている。
「ずいぶん時間がかかったな。もう来ないかと思い始めてた」
 低いつぶやき。その深い吐息の中にあるものは安堵? それとも……?
 思わず、身構えるように問い返した。
「そんなにわたしに会いたかったの? どうして?」
 不可解な目でしばらく黙っていた弟は、やがて、ちょっと皮肉につぶやいた。
「ただ、会いたかった……。それだけじゃ理由にならない?」

 そんなこと言われても、どうしたらいいのか全くわからない。大体、八年も向こうに行ったきりだったくせに、今さら何よ……。
 ふと、まだ弟に身体を預けたままだったことに気付く。慌てて一歩下がった途端、ヒールのかかとがドアにぶつかり、カツンと軽い音を立てた。

 ああ、いくらなんでも、こんな予定じゃなかったのに。ほら、リセット! 最初からやり直し!

「しょ、食事した? まだなら、一緒に何か……」
「したよ。それに、今食べたいのは飯じゃない。さっきの反応を見た限り、あんたもそうだと思うけど?」
 からかうように眉をあげ、さらっとまた危険なことを言い出す。わたしは慌てた。
「まーた、そんなことばっかり……、あんまり姉をからかうものじゃないって、いつも言って……」
「沙夜!」

 けれど、言いかけた言葉は、一声でばっさりと立ち切られた。翔平がゆっくり両手を伸ばすと、目を見張ったわたしの頬を大きな掌で包み込んだ。

「なら、あんた、何しにここに来たんだ? 優しい姉貴らしく、可愛い弟に何かおごってくれるため?」
 半ば呆れたようにわたしの目の奥を覗き込むと、彼はゆっくりと続けた。
「なぁ、そろそろ、やめにしないか?」
「やめるって……何をよ?」
「姉弟ごっこ」
「……!」
「だってそうだろ? 今ここには俺とあんたの二人きりだ。これ以上、無理に姉弟のふりを続ける必要がどこにある? 俺達はとっくに、そんな関係じゃなくなってるはずだ。あれから八年もかけたんだ。あんたもいい加減で認めろよ」
「えっ?」

 八年もかけた……って、それはいったいどういう意味?

 驚きの目を見張るわたしに、反論しても無駄だよ、と有無を言わさぬ頑固な黒い瞳が告げている。
 経験と、たった一人で築いた社会的実績に裏打ちされた、強い男だけが持つ眼差し。
 今ここにいるのは、昔と同じ翔平でありながら、全く違ってもいる……。

 何か言わなくちゃ……。
 焦って開きかけた唇が、じれったそうなため息と共にまたふさがれてしまった。熱い舌先が滑り込んできて、さっき以上にエロティックに口内を這い回る。それはまさに、狙った女をベッドに誘い込もうとする男の手管そのものだった。同時に胸元に手が伸びてきて、服の上からじらすように弄り始める。
 身体が軽くのけぞった。そう、少しも抗いもせずに、このキスと愛撫を受け入れているわたしに何が言えるの?
 半ば諦めの境地になってきて、できる限り彼の口付けに応え始める。

 翔平がいともあっさり言ってのけた言葉は、わたしがこれまでずっとしがみ付いてきた脆い防波堤を、瞬時に打ち砕いてしまった。やっとのことでせき止めていた感情の濁流が、決壊したダムさながらにたちまち氾濫し、身体の隅々に広がっていく。
 再びきつく抱き締められ、腰をぐっと押し付けられたとき、下腹部に男の高まりを強く感じた。まるでそこにぴったりと嵌るのを待っているようだ……。
 途端に、その部分に火がついたように熱くなってきた。初めて感じた。これが『情欲』というものだろうか。何であるにせよ、もう抑えることなどできそうになかったし、抑えたいとも思わなかった。キスを深めながら、わたしも負けずに全身を押し付けていく。
 彼の唇がわずかに離れた。荒い息をつきながら、翔平がアップにまとめていたわたしの髪からピンとコームを抜き取り、脇に放り投げる。量感のある髪がばさりと顔に落ちかかった。わたしもまだ息をあえがせたまま、その口元に囁きかける。

「ねぇ、この通りよ……。認めたわ。それで、どうなるの?」
「そんなこと、わかってるだろ?」

 ぶっきらぼうな声には勝ち誇った響きがこもっているような気がした。ほとんど同時に、わたしは軽々と抱き上げられていた。



patipati

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16/05/12  更新