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 天幕の中に焚き込められたかぐわしい乳香の香り。聖なる供え物のように、わたしは裸身をシルクの寝台に横たえている。
 わたしを見下ろしながら、彼がシークの王衣を脱ぎ捨てた。引き締まったたくましい裸身がわたしの上にかがみ込み、幾度も甘やかなを口づけを交わす。やがて力強い腕に包み込まれるように抱き締められ、熱い肌をぴったりと重ね合わせていく。
 今わたしの周りにあるのは、ただ彼と、情熱的に絡み合った二つの肉体だけ。もう何も考えられない。そしてもう逃れられない。わたしはあなたに捕らえられてしまった。身も心も永遠に……。

『愛しているわ……。お願い、わたしを決して離さないで』

 幾度も襲ってくるエクスタシーの渦の中で、息も絶え絶えに懇願する。そんなわたしを、なおも組み敷き、攻め続けながら、あなたの黒い瞳がわたしの表情を覗き込む。目を開くと天幕の灯火に誇らしげな微笑が浮かび上がる。その目は残酷なまでの欲望と、もう一つ何か言い知れない痛みを湛えてわたしを見下ろしている。どうして、そんな目で見るの? そう尋ねようとしたとき、一層荒々しく奪われ、わたしは悦びの中で気を失いそうになる……。

『お前は、わたしの最後の悦び、そして最大の苦しみなのだ……』 

 哀しみのこもった声が次第に遠のいていく。わたし達を包む天幕も、彼さえも朧ろになり消え失せて、周囲の様子が突如一変する。


「見よ、我らが王の勝利の旗印を!」
「王国は今日を限りに終わったのだ。太守一家は我らにとりでを開け渡し、去って行った!」

 場内外から聞こえる恐ろしいほど荒々しい大喚声。それを耳にしながら、アラブ風のチュールのカイクを身につけたわたしは、取り囲む男達に向かい、短剣を手に必死になって訴えている。

『わたしは、あの人の妻よ! どこにも行かないわ! 離して! お願いだから、王子に会わせて!』
『王子は死んだ!』
『うそよ!』

 わたしを取り囲んでいるのは、鎖帷子を付け、血に濡れた剣や槍を持った兵士達。
 やがて、わたしは絶望に力を失い膝まづいてしまう。彼らの一人が乱暴に手から剣をもぎ取った。抵抗する力をなくした女奴隷を引っ立て、男達が歩いていく。
 残された石造りのライオンに囲まれた噴水の水までが、血で赤く染まっている……。



 合衆国 ワシントンDC


「お願い、あの人に一目会わせて!」
 そう叫んだ途端、ジェイド・ウォーレンはハッと目を開いた。アパートメントのカーテン越しに、いつもと変わらぬ朝の日差しが差し込んでいる。
 ああ、またあの夢だわ……。
 乱れた長い金髪を神経質にかき上げながら深い吐息をついて、ようやくベッドの上に身を起こした。この夢を見た朝は、決まって激しい動悸とともに一種のショック状態になっている。今朝の夢は分けてもリアルだった。額は汗ばみ、身体は愛する男から存分に愛された後のような性的充足感に満ちている。さらに泣きたいほどの切なさまでが混在し、精神的に大混乱をきたしていた。
 翡翠(ジェイド)という名の由来である深い緑色の瞳を物憂げに翳らせながら、ジェイドはすっきりしようとシャワールームへ向かった。
 最近、頻繁にこの夢を見る。もっとも以前からも、時折モスクや見たこともない荒野の夢を見ることはあった。とは言っても、ずっと断片的で情景もおぼろげだった。なのに、一年ほど前から急に場面がはっきりしてきたのだ。
 ワシントンの新聞社に勤めるジェイドは、一年前に今の政治部に移動を命じられた。頻繁にこの夢を見るようになったのもその頃からだった気がする……。
 結局、環境の変化のせいに違いないと、あまり気に留めずにいた。しかし、日が経つにつれてますますリアルさを増し、背景まではっきりしてくるようだ。
 自分に心当たりは全くなかった。そういう映画が好きなわけでもない。夢は無意識に沈んだ記憶や願望の表れだというけれど、爆発しそうな欲求不満を募らせているつもりなんか、さらさらないのに……。


 夢に出てくる金髪の女は、いつも彼女自身だった。彼女を抱く男の顔は、残念ながらよく見えなかった。だが、自分がその力強い腕の中で、いつ死んでもいいと思えるほど彼を愛していることだけはわかっていた。
 そして、結ばれた後は決まって、取り囲む兵士達の手から逃れようと、必死になって抵抗している。お陰で、いつも目が覚めた後まで、【あの人】のところに行かなければ、という切迫した思いが生々しく渦巻いているほどだ。

「どうしてこんな夢ばかり見るのかしら?」 
 熱いシャワーを浴びながらも、気が付けばまた考え込んでしまっている。
 これまで、無視しようとしてきたが、あまりにもたびたび出てくる上、そのリアルさが生半可ではなくなってきた。本当に夜毎にあの男に身を任せ、みだらなセックスにふけっているような気がするほどだ。
 このままでは、精神に異常をきたすのでは、と少し心配になってくる。やはり精神鑑定に行くべきだろうかと、真剣に考えてしまう。


 今朝の夢は、周囲の情景まではっきり目に残っている。どこかで見た覚えがある気もするけれど、どこだったかしら……。
 機械的にタオル地のガウンを羽織り出てくると、機械的にトーストとコーヒーの朝食を取る。考え込んでいるうちに携帯のアラームが鳴った。もう出勤の時間だ。
 急いでメイクし、長い金髪をいつものようにゆるく結い上げると、オーバーブラウスとタイトスカートに身を包む。知性のきらめきが宿る澄んだ大きな瞳で鏡の中の自分をチェックした。トートバッグに携帯を放り込んであわただしく外に出る。

 ワシントンDCにも、そろそろ秋が訪れようとしていた。


◇◆◇  ◇◆◇


「それは明らかに映画の見すぎだな! 君はいつからそんな嗜好にはまったんだい?」

 ジェイドはむっとして、揶揄した男性同僚に目を向けた。けれど、何も言わず形の良い唇をすぼめると、少し乱暴にコピー機のふたを閉める。
「何もはまってなんかいないわ。でも毎晩のように同じ夢を見たら、あなただって気味悪くならない? 月明かりのお城みたいな場所に、噴水があるパティオがあって……」
「なかなかロマンティックじゃない。それでどうなるわけ?」
 オールドミスの事務員、ポーリーンが合いの手を入れたので、さすがにシルクのベッドはすっ飛ばして簡単に説明する。
「誰かを一生懸命探しているの。でも、その相手を見つける前に、剣を持った兵士が現れて……」
「なるほど、敵に妨害されてたどり着けないのね、キングに。……って、コンピューター・ゲームじゃあるまいし」
 周囲から笑い声が起こったので、ジェイドは小さく肩をすくめた。
「ええ、そうよね。わたしもそう思うもの。もう忘れることにするわ」

 コピー用紙を追加しながらため息をついたとき、突然ドアが開いた。一同はっと押し黙ったが後の祭り。編集長のベン・ピアズが眉をひそめて入って来た。

「楽しそうに雑談とはいいご身分じゃないか。君達の仕事がそんなに気楽だとは知らなかったぞ? 政府関連記事を扱うのに、ミスが許されんことはわかっているな?」
 続く皮肉を聞きながら、一同は机に向かった。しんと静まった中、かすかなキィボードの音がやたらと響く。
 やがて、彼の目がモニターの影に身を隠したジェイドを捉えた。

「ミズ・ウォーレン、資料はできたのかね?」
「あと少しです!」
 慌てて返事をしながら、コピーを内容ごとにまとめてクリップで留めていく。
「できたら、わたしのところに持ってきたまえ。話がある」
 彼は素っ気無く言うと、さっさと出て行った。


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13/10/06 更新
連載開始のご挨拶は、ブログにて。