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 彼は目を閉じたまま、しばし自分の内なる声と対話しているようだった。沈黙が続く中、部屋に息詰まる緊張が漂う……。

 長い黙考の末、ついに目を開いた王子は、ジェイドを真っ先に見つめた。彼女の碧の瞳に自分への嘆願と賞賛があふれているのを見て取ったように、一つ深い吐息をつくと、かすかにあきらめの混じった表情を浮かべ、立ち上がった。
 厳粛な面持ちでアリの前に立ち、そのときまで、アリがじっと捧げ持っていたビロードの箱を恭しいとさえ云える態度で両手に取り上げる。
 アリの目が輝き、ついでこらえ切れないように目から涙が老いた頬を伝って落ちた。
 アシュラフはアリに一つ頷いて見せた。そして、ジェイドに目を向けながら呟く。

「君が我が運命の女だという予言は、やはり正しかったようだ。君が引き連れてきた嵐が、今ついに、目前まで迫ってきたな。対峙するべき時が来たようだ」

 まだ泣きながら彼を見ているアリ・ザイードに向かうと、意を決したようにはっきりと指示を出した。

「彼らに会おう。会合の手はずを極秘で整えてくれ。お前も今後は身辺に十分気をつけるんだ」
「かしこまりました。今も甥達が外で待っておりますので、どうかご安心を」

 重々しい顔に、見たこともないほど晴れやかな表情を浮かべて出て行く執事は、十歳も若返ったように見えた。
 その後姿を見送ってから彼は窓辺に佇み、しばらく黙ってホテルから見えるマドリードの市街地と青い空を眺めていた。やがて振り返るとテーブルに置かれていたビロードの箱に歩み寄り、かすれた声で言った。

「これを見ろ」

 中には、まさに王家のジャンピアが収められていた。独特なカーブを描く太い金細工の鞘には無数の小さな宝石が散りばめられているが、その中央にひときわ大きなサファイアがはめこまれていた。彼はそれを両手で取り出すと、畏敬を込めて口付け、父祖の霊に誓うように掲げたまま、アラビア語で何か祈りを捧げている。

 その剣を再び箱に収めてから、彼は傍に立っていたジェイドを真っ向から見据えた。
「ついに、これを取る気にさせたな。決意できたのは君のお陰だ。では、一緒に来るがいい、ジェイド」
 今生の新たな運命に誓って、君も連れていく。決して離さない!
 その場で、彼女の衣服を剥ぎ取るように脱がせ、抱き上げてベッドに運びながら、彼は言った。
「ええ、一緒に行くわ、わたしも連れて行ってちょうだい」

 なぜ素直にそう応えてしまったのか、彼女自身よくわからなかった。行く先にはどんな危険が待ち受けているかもしれないのに……。

 おそらく、彼の持つ王者の風格が自分を魅了し、完全に捉えてしまったのかもしれない。あるいは、今日この日を迎えることが、過去世からの逃れられない運命の定めだったのか……。
 同時に、まさにその運命が自分に書かせたとも言える、あのインタビュー記事が蒔いた種が、これから彼の国でどんな風に芽を出し、花を咲かせていくのか、しっかりと見届けたい、という思いもあった。
 再びベッドに組み敷かれながら、ジェイドは男性そのもののアシュラフを身体の全てで受け止め、女として生まれた悦びを思う様味わった。そのまま辺りが夜の帳に包まれるまで、互いの情熱の限りをぶつけ合い、激しく愛し合った……。


◇◆◇  ◇◆◇


 そして……。さらに数週間が瞬く間に過ぎ去った。
 マドリード市内のホテルに潜伏しながら、彼とともに居る悦びを味わい、またこの機会に、サマールに関する一連の動きをドキュメントにまとめたいと思っていた。記者として、誰よりも身近でつぶさに動向を眺められることは素晴らしいことだし、いつか時が至ったとき、公の場に出すことができればと願ってやまなかった。

 そのうちに、ジェイドは自分の体調の変化に気付いた。きっかけは生理が来なくなったことだったが、環境が変わったせいかもしれないと思っていた。だがある日、食事中に激しい嘔吐感を覚えた。化粧室に駆け込みながら、とうとう自分が妊娠したことを確信した。

 王子は別室でずっと電話している。彼には何も知らせてはいけない。今は王国全体が生みの苦しみに耐えているといっても過言ではないのだ。その大渦中に居る彼に、これ以上余計な緊張感を与えたくなかった。
 何度かの極秘会議や電話会談を経て、ついに亡きアシュラフの父、亡き先王の友であった隣国シークの理解を得、招請を受けることに成功した。サマールとは西側で国境を接している国だ。
 すでに集まっている同志達も相当な勢力に達していた。アシュラフ達はその同志達とともに、スペインを出国することになった。
 彼自身はジェイドやアリ・ザイードとその親族などとともに、隣国の王室よりチャーターした小型専用機で隣国入りとなった。隣国を味方につけたことで、アブドゥラ将軍も介入がより難しくなったとの見方が広がっていた。自国が内戦の危機にある中、それを抑えるのに精一杯で、隣国との戦争を引き起こすような暴挙には出にくいという見方だった。

 こうしてその年の終わり近く、サマールとの国境に近い砂漠地帯にある村で、王子派の勢力が密かに結集し、大詰めの話合いがもたれることになった……。


◇◆◇  ◇◆◇


「おお、これは……」
「亡き国王陛下の若き日のお姿を見るようだ……」

 同胞が期待を込めて待ち受ける場に姿を現した彼は、黒いカフィエと、金糸で縁取りした黒いバーヌースとマントを身に着け、腰帯に王家のジャンピアをしっかりと差していた。それはまさに堂々たるシークの正装に戻った姿だった。
 見るなり王子に亡き国王の姿を重ね、涙ぐむ老師や長老達もいた。ジェイドもまたその地方の習慣に従い、全身をすっぽりと黒いアバヤで覆って、目立たぬよう一番隅に同席し、しっかりとその場を見つめていた。

「我らがシークよ。この日を切にお待ちしておりました。必ず来ると信じて……」
 王子を見ながらそう涙ながらに忠誠を誓っていく男達を見渡して、アシュラフは彼の王位継承権者の印であるジャンピアを手に取り、それを高く掲げてから、高らかに口を開いた。

「この王家のジャンピアと父祖達の霊にかけて、わたしは今ここに誓おう。わたしの王国を取り戻すことを。そして、一刻も早く、国民の教育体制と議会制度を作り、すでに先進諸国の仲間入りをしている近隣国の例に倣って、誰よりも民達がこの時代の恩恵に浴し、安心して暮らせる国にしてみせる」


 だが、敵にも既にこちらの動きを察知されている危険は高まっていた。国境を越えた途端、逮捕される、という事態にならないよう、軍事的な準備も備えた上で慎重にも慎重を期さねばならない。作戦会議は数日にわたって続いていた。

「将軍の軍隊の動きをいかに抑えるかが、最重要課題だ。他国軍の手を借りることは、できれば避けたいが……」
 そのとき、それまで黙って立っていた男が、ふいにカフィエを脱ぎ捨てると一歩歩み出し、凛とした声をあげた。

「アシュラフ王子よ、ご心配には及びません。我が部隊が殿下の入国を護衛し、軍内部の工作をいたしましょう」

 突然辺りが激しくざわめいた。さわめく声から、その男が将軍の副官で、片腕でもあった男だとわかった。そこに居るべきではない者だったらしく、場内が騒然となり、「殿下をお守りしろ!」というヒステリックな叫びが上がると、たちまち武装兵士が駆けつけ、アシュラフを守るように、その男を取り巻く。
 だが、じっと相手を見ていたアシュラフが立ち上がって彼らを抑え、その男を場の中央に迎え入れた。男はいかにも軍人と見える堂々とした体躯を見せ付けるようにして、悠然とそこに立つと、イスラム式の敬礼をする。

「お久し振りでございます、王太子殿下」


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13/12/05 更新