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 イェール大学を卒業後、ジェイドがこのワシントン・ヘラルド社で仕事を始めてから、ちょうど四年になる。
 昨年からこの政治部で駆け出し記者兼ジャーナリストをしていた。新聞社と言っても仕事内容はさまざまだが、彼女は議員あるいはその秘書達に、政治や外交の所見に関するインタビューをしたり、ホワイトハウスの記者会見に出てそれを記事に書き起こし、原稿作成から校正までを担当している。時においては紙面トップを飾る重要な内容も含まれているから、 ささいなミスも問題になりかねない。今の小言ではないが、絶えず細心の注意を払っているつもりだ。


 今朝は出勤するなり、上司から近東諸国の一つ、サマール国の資料をまとめろと言われ、その作業をしているところだった。
書類を手に立ち上がったとき、積み上げられた雑誌の山から一冊の旅行誌が落ちた。何気なく拾い上げた彼女の目に、ある写真が飛び込んできた。思わず手を止める。この風景、どこかで見覚えがあるような……?

 次の瞬間、ジェイドは息を呑んでその雑誌に見入った。
 噴き上げる噴水を石造りのライオン像が取り囲み、その背景に凝った幾何学文様の装飾で飾られた壁。それら全てが今朝見た夢の場面としっかり重なった。あの場所にそっくりだ。
 咄嗟にその説明を凝視する。[アルハンブラ宮殿]。
 ジェイドはすぐさまやりかけの作業を中断し、コンピューターに向かって検索を開始した。
 アルハンブラは『赤い城』と言う意味の、中世イスラム建築の代表的宮殿だ。まず所在地と概要を調べてみる。スペインのグラナダ。アンダルシア地方にかつて栄えたナスル朝の栄華と芸術を今に伝えるグラナダ王国最後の砦……。

 もちろん名前や場所くらいは知っている。けれど、これまで特に関心を引かれたことはなかったし、ましてや詳しい建物構造や内装までは知るよしもない。
 それなのに……。 
 でも、夢に出てきたのは確かにここだわ……。
 目を閉じ、幾分忘却の川を渡りかけている記憶を懸命に引き戻そうとしてみる。それにしても、どうしてこの城が毎晩のようにわたしの夢に出てくるの? 見たことも行ったことも、興味すら持っていないのに!
 もっと詳細に調べようとしたとき、内線に連絡が入った。上司の苛立った声にたちまち現実に引き戻される。
 いけない、今は仕事が先。あとで一人になってからじっくりと調べてみればいい。



「来週、グラナダへ出張ですか? わたしが?」
   驚きのあまり、ジェイドは上司の言葉を鸚鵡返しに問い返していた。
 今、グラナダへ? こんな偶然があるものだろうか? だが今彼女の手元には、先ほど一生懸命に作ったサマール国の資料とともに、スペインのアンダルシア地方の地図や交通網などが、コピーされて手渡されていた。そして、最後に編集長自ら、インタビューする相手の写真と情報の入った封筒を渡される。

 今回のインタビュー相手はそのサマールの王族らしかった。急いで封を開いて取り出した写真の中で、細い組紐で止めた黒いカフィエの下、物憂げな瞳がこちらをじっと見返している。通った鼻梁と意志が強そうな引き締まった口元、顔立ちもどきりとするほど男らしくてハンサムだ。
 だが、そんなことが問題ではない。ジェイドはその顔を見た途端、背筋に戦慄を覚えた。初めて見るはずなのに、全くそんな気がしない。この感覚はいったい何だろう?

 ――デ・ジャブ?

 急いでその名前を見て、再び驚きの目になる。アシュラフ・アル・ディン・イブン・サルマーン。
「この人物は……」
「知っているかね? たった今君に調べてもらったサマール国の元王太子、アシュラフ・サルマーン氏だ。八年前の母国の政権交代劇のときに、内乱を回避しスペインに亡命した。以後グラナダに住み着き、農園を経営している」
 こう言いながら、彼は顔をこわばらせているジェイドに微笑みかけた。
「どうした? 別にテロ行為が頻発しているサマールに行ってもらうわけじゃないぞ。グラナダは現在平和だし、いつも通りのインタビューでいいんだ。安心しなさい」
「ですが、こんな大事な仕事をどうしてわたしに?」
 戸惑いから、ジェイドは思わず声を上げた。今の自分に海外での仕事が回って来るとは思ってもいなかったからだ。上司は忍耐強く微笑んだ。
「いくつかの条件に当てはまる、容姿端麗な若い女性を探した。君はそれらの条件を全てクリアーしたというわけだ」
「と、おっしゃいますと?」
「まぁ、その、なんだな……」言いにくそうに、こほんと一つ咳払いする。「アシュラフ・サルマーン氏に会ったとき、彼のプライベートの関心事も適度にチェックしてもらえればと思っているがね」
「はぁ……」
「何、心配は要らんだろう。王子とはいえ、今はただのアラブ人地主だ。特に目立つ情報は入っていない。だが、エジプトをはじめ近東諸国の特集を組むのに、悲劇の王子としての体験や、祖国の現状をどう考えているか、なるべく具体的に聞ければと期待している」
 秘書がさらに渡航に必要な書類の入った大きな封筒を手渡してきた。
「インタビューの詳細内容はディレクターと相談して、報告して欲しい。守秘義務ももちろんわかっているね? 出発は一週間後。滞在予定は三日間だ。今から出張の準備にかかってくれたまえ」


 編集長が出て行った後、残されたジェイドは、ディレクターに向かって呟いた。
「……まさか、わたしにこういう仕事が回ってくるなんて思わなかったわ」
「おやおや、ご謙遜だな。君なら若いし、知性もフランス語能力も社内1、2を争うじゃないか。美人なのは言うまでもないし」
「まぁ。見込んでいただけて光栄です、とでも、お返事すべきなのかしら」
 くすっと笑うと、ようやく濃いグリーンの瞳が和んだ。彼の説明が続く。
「王子はケンブリッジ大に留学中に政変に合った。現在、サマールの首長についているのは前国王の弟だが、病弱で軍部の傀儡に過ぎない。問題は、軍部があの地域に起こっている民主化運動に反し、少数民族による弾圧政策を進めているということだね。その上軍部に同調する過激派の外国人を狙ったテロも多い。今や国内外から反発が強まっていて、英明な王子であったアシュラフ氏に、帰国要請が絶えないという噂なんだ。彼の所見が聞ければと思っている。君のインタビュアーとしての力に、大いに期待しているよ」
「わかりました。精一杯、やらせていただきます」
 ようやく納得して頷くと、ジェイドはインタビュー内容を考えはじめた。
 打ち合わせの後、部屋を出るとき、彼女はふと思い出して微笑んだ。
「一応、わたしを推薦してくれてありがとう、と言っておくわ」

 これでもう、アルハンブラのことを調べる必要はない。この仕事の後にでも、現地に行けるだろう。


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13/10/11 更新
簡単な後書きは、ブログにて。