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 彼女はまた別の場所を歩いていた。

 靴が片方脱げて傷ついた足に血がにじんでいる。まるでアラビアの踊り子のような薄いチュニックにサッシュを結び、薄いベールをかぶっている。どうやら、くずれかけた城壁の辺りをさまよっているようだった。
 ふと前方に、背の高い堂々たる体躯の男の後姿が見えた。黒ずくめの衣装のせいでどこか恐ろしげにも見える。金ぱくで豪奢な縁取りが施された黒いマント、黒いターバンで覆われた頭から黒髪が少しこぼれている。
 その姿を見た途端、全身が喜びに震えた。
 彼よ、彼だわ!
 とうとう、探していた相手を見つけ出したようだ。
 物音は立てなかったはずなのに、人の気配に気付いたように彼が振り向いた。その姿にまた息を呑む。
 激戦の中をくぐり抜けてきたようにマントは泥に汚れ、その下の薄い鎖帷子にもどす黒い血がこびりついていた。だが、それ以上に彼自身から発せられる冷酷な怒りに、思わず立ちすくんでしまう。
 男らしい魅力に満ちていた顔が疲労と絶望にやつれている。彼の背後の壊れた城壁の彼方に、破壊され煙が立ち上った街と、人や馬の死体らしきものが累々と赤茶色の荒野まで続いていた。

「……お前が、この災厄を招いたのか?」
 かすれた声で問いかけられても、声が出せなかった。彼女は懸命に首を横に振りながら必死に彼に近付こうとした。
 かつてあれほど激しい情熱を分かち合った恋人……。いつものようにきつく抱き締めて、ぬくもりを与え合いたい。そうすれば、彼にも自分の愛が判ってもらえるはず……。
 だが、ようやく彼の前に来た途端、彼は苦しげに目を閉じてしまった。まるでその姿を見たくないと言わんばかりに。
 ふいに目の前に、血にまみれた三日月刀が閃いた。はっと目を閉じた彼女に白刃が振り下ろされる……。


◇◆◇  ◇◆◇


 飛行機で十三時間半ものフライト、というのも、ジェイドには初めての体験だった。
 少し仮眠を取った後、備え付けの雑誌を眺めたり、サマールの資料を読み返そうと努力してみたり。
 けれど、資料のページをめくっても何も頭に入ってこない。気が付くと考えているのはアシュラフ王子のこと、そして、考えまいとすればするほど、意識に立ち戻ってくる今朝方見た鮮やか過ぎる夢のことだった。
 昨夜、初めて夢の中で場所が移っていた。そして探していた相手にとうとう出会えた! という興奮があった。だがその男に近寄った途端、彼は……。思い出すだけで、ぞくっとする。
 もう少し眠っていたら、あの剣はわたしを切り捨てていたのだろうか。

 目覚めた後も、激しく呼吸が乱れ涙が頬を伝っていた。何故かとても悲しかった。切なさに胸が締め付けられるようだ。
 あれから何度も、アシュラフ・アル・ディン王子の写真を取り出して眺めていた。その顔は、夢の中で自分が待ち望んだ相手、そして自分を殺そうとした男にそっくりに見える。あるいは、この写真に影響され過ぎて、あんな夢を見たのかもしれない。


  マドリードで飛行機を乗りつぎ、山を越えて遥か下に広がる潅木と赤茶色の大地を眺めているうちに、目指す空港が見えてきた。飛行機がスペイン南部、フェデリコ・ガルシア・ロルカ・グラナダ空港に到着したのは、夕刻もかなり遅くなってからだった。

 初秋のアンダルシアは、いまだ濃い夏の空気を留めていた。小型カートを引いてゲートから出ると、中年の太ったアラブ人らしき男が、英語でタクシーは要らないかと尋ねてくる。農園の場所を言うと頷いたので、乗せてもらうことにした。道路から、密集した家屋が立ち並ぶ集落と反対側の低い潅木の台地が対照的に見える。
 空が急に暗くなった。ふいに、前方に霞むシェラネバダ山の上空から、太い稲妻が二本、天から地へとまっすぐに閃いて落ちた。まるで二本の火柱が立ったようだ。間髪入れずすさまじい雷鳴が響き渡り、ジェイドはぶるっと身震いした。運転手がスピードを上げながら唸る。
「嵐が近付いてるんでさ。この時期にはたまにあることで。とにかく急ぎましょうや」



 グラナダのピノス・プエンテ。ここはかつてナスル王朝時代、グラナダへの要所としてしばしば、スペイン人とアラブ人の係争の地となった場所だった。
 川にかかる古い橋を守るように、アラブの王子の館がどっしりと居を構えていた。建物を囲む馬蹄形アーチを支える柱に、わずかにアラビア文様らしき装飾が伺える。

 邸内を光沢のある長いチュニックに身を包んだ、がっしりした中年男が、銀の盆を手にいかめしい顔つきで歩いていた。主人が立つ二階のバルコニーに上がってくると、天地に轟いた雷鳴を物ともせずに一礼する。
「お飲み物をお持ちしました」
「嵐になるな……」
 シェラネバダ上空のすさまじい雷の柱を眺めていた男がゆっくりと振り返った。白いシャツから伸びた鍛えられた褐色の手がグラスを受け取る。その動作には優雅さが伺えた。
「アリ、今夜は客人があると言っていたな?」
「はい、ただいま連絡がございました。まもなく当屋敷に着くようです」
「雨がひどくならぬうちに、辿り着けるといいが」
「インシャーアッラー(全てはアッラーの御心のままに)。殿下がご心配なさることではございません」
「殿下はよせ、と言ったはずだ」
 眉をひそめ、冷やしたミントティを一息に飲み干す。
「かしこまりました、旦那様」
「確か、アメリカの新聞記者だったか……」
「さようでございます。インタビューしたいと申しておりました。新聞社に照会し身元も確認済みですので、ご安心を」
 アシュラフ・アル・ディンは、サマール国時代から彼に変わらぬ忠誠をささげているこの家令、現在は館の執事を勤めるアリ・ザイードを、陰鬱な眼で見やった。
「そんな心配はしていない。ただ、アメリカからはるばるこのスペインの片田舎までやってくるとは、ご苦労なことだと思っただけだ。大した収穫は得られまいに」
 嘲笑を浮かべ、彼はもう一度自邸のやしの木の茂る庭と、その向こうに広がるオリーブ農園に目を向けた。
「今のわたしが自由にできるのは、せいぜいこのオリーブ畑くらいのものだからな」
「お言葉ですが、旦那様、いえ、シーク・アシュラフ」
 忠実な執事の声が急に切実さを帯びた。
「我が国の王位継承者の印である王家の宝刀(ジャンピア)は、今も殿下がお持ちなのです。殿下は今でも、サマールの王太子、シークでございます。国へのご帰還を待ち望む声が、日を追うごとに高まっていることは……」
「アリ……」
 静かに威嚇するような声が落ちた。
「客人への食事の支度がきちんと整っているかどうか、確認してきてくれ。それから、わたしが会うのは明日にすると伝えておけ。今夜は、お前が相手をして、適当に休ませておけばいい」
「かしこまりました」
 主人に強引に話を締めくくられて、執事は仕方なさそうに一礼すると、立ち去っていった。

 再び一人になった彼は、無意識にバルコニーの手すりをきつく握りしめた。噛み締めた歯の間から、きしるような声が漏れる。
「王位継承者のジャンピアだと? あんな物があったところで今更どうなるものでもなかろう。時代はとうに動いているんだ」
 暗い空から、激しい夕立が降り始めた。


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13/10/17 更新
簡単な後書きなど、ブログにて。