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 いきなり、どうしたというの? 彼に変に思われるわ。

 自分でも全く訳がわからなかった。だが、目の奥から理由もなく熱いものがこみ上げてきて、慌てて抑えようにも、今の状況などお構いなしに涙がこぼれ始めてしまう。その上、ショックを受けたように全身がぶるぶると震え出す始末だ。
 制御できないその異常な反応に驚き、慌てていた。彼がどう思うか、考えるのも恐ろしい。
「わ、わたしったら、どうしたのかしら……。すみません、もう失礼しますわ」
 慌てて片手で頬を押さえながら、握られた手を離そうとするが、彼はさらに力を込めてジェイドの手を掴むと、二人の距離を失くすように引っ張り寄せてしまった。
 夜空を薄い雲が流れ、月がさっきより明るい光を投げかけていた。王子もまた、何かに驚いたように息を呑んでいるのが感じられた。
 突然ジェイドの腰に手をかけると、ぐいっと自分の身体に密着させたので、ついに彼と抱き合うような格好になってしまった。驚いて見上げた彼女の顔を、大きな掌が包み込み顎をそっと持ち上げる。
「どうして泣いている?」
「わ、わかりません。自分でもさっぱり訳がわからないんです……、お許しください……」
「こんなに震えて……。もっと顔をよく見せてくれ」
 何とか身体を離そうとするジェイドの努力も虚しく、今やほとんど抱き締められてしまっていた。彼の声も真剣そのものだった。月光の方に向け、力強い指で顎を押し上げられて、否応なく視線が絡み合う。王子の険しい表情にも、確かに激しい驚きが現れているようだ。

「君とは、以前どこかで会ったことがあるだろうか?」
「いいえ、もちろんありません。ある筈がないわ」
「そうだな。では何故だ……」
「自分でもわからないんです、ただ、貴方といるとある夢のことを思い出してしまって……」
「夢だと?」
 ジェイドを抱く腕が一層強く、万力のような力を帯びた。思わず「痛っ」、と小さく悲鳴を上げると、やっと気付いたように僅かに緩む。
「君の夢とは、どんな夢だ?」
 王子の顔付きがただならない。今や儀礼的な微笑みもすっかり消えうせ、自分を刺し貫かんばかりの眼差しになっていた。再び問いかけられた声も、凄みを帯びて荒々しい。
「それは、どんな夢だったと聞いているんだ!」
「殿下には、全くかかわりのないことですから!」
「そうかな?」
 負けずに声を張り上げた彼女の抵抗を面白がるように、彼が顔を寄せてきた。唇が今にも触れそうなところまで近付く。
「その夢の中で、僕はこんな風に君にキスしなかったか?」
 囁きとともにジェイドの唇は、彼の唇に熱っぽく覆われていた。


 それは文字通り痺れるようなキスだった。たちまち身体が火をつけられたように燃え上がる。舌が強引に唇を割って入り込んでくると、その甘い口内を余すところなく探索し始め、ついに舌を絡め取られ激しく吸い上げられた。感覚を揺さぶられ、ジェイドは思い切り困惑していた。
 ああ、自分にこんなキスをしたのは、あのアラブの王だけだった……。
 次第に朦朧としてくる意識の中で、自分の思考よりもっと奥深いところからこみ上げてくる生々しくも本能的な切望感に、抗いきれなくなってくる。
 わたしはこの人を待っていたのよ……。そんな声がどこからともなく聞こえてくるようで、ついにその激しいキスに身を任せてしまう。
 キスを返し始めた彼女の変化を読み取ったように、彼も一層激しく応じてきた。一層むさぼるようにその唇を味わっていたが、そのまま頬から首筋やうなじへ焼けつくような舌先が這っていく。顎の下にひり付くような感覚を覚え、彼女はようやく我に帰った。そしてサンドレスの胸ボタンがはずされかけているのに気付き、ぎょっとする。わたしは今、一体何をしているのだろう?
「や、やめてください!」
 男性そのもののような男の力でこんな風に抱きすくめられていては、到底太刀打ちできない。女の弱さを今ほど感じたことはなかった。ジェイドが必死にみじろぎ、手を動かそうとするのに、彼もようやく気付いたように顔を上げ、抱き締めている腕を少しだけ緩めてくれた。
 静まり返った庭に、二人の荒々しい息遣いだけが聞こえる。心臓の音はまるでドラムのようだった。ふいに彼が唸るように呟いた。

「これは、さっそく確かめてみなければならないな」

 今起こった出来事に呆然として、ジェイドは半ば放心していたが、王子の唇が再び彼女のこめかみに触れ、その手がサンドレスの肩にかかるのを感じると、急いで身を引き離した。
 大混乱しながら、慌てて身を翻して立ち去ろうとしたが、「おっと」と、たちまち両手で捕らえられてしまう。
「たった今まで、喜んで身を任せていたくせに。今更、淑女めいた振りをしても遅いと思わないか?」
 嘲るような言葉にかっと頬に血が上った。考えるよりも先に、手のひらで彼の頬を引っぱたいていた。
 手にじんと痛みが走り、自分が大変なことをしてしまったと気付く。

 どうしよう! この人はただの男性ではないのに!
 困り果て、ジェイドは王子の顔をまともに見ることもできず、俯いてしまった。沈黙が続き、彼の反応が気にかかる。
 わたしったら、キスされたぐらいで何をうろたえているのよ……。
 できればプライバシー関係も……、と言っていた編集長の言葉が蘇り、自分を蹴飛ばしたくなってくる。
 とにかく、これで王子のご機嫌を損ねてしまったのは間違いない。明日のインタビューがキャンセルになったらどうすればいいの?


 急に低い笑い声がして、その場の緊張が破れた。驚いて目を上げると、打たれた頬を手で押さえたまま、くっくとおかしそうに笑っている。

『このわたしに手をあげた女は、お前が初めてだぞ……』
 アラビア語らしき低い呟きの意味はわからなかったが、恐ろしい感じはしなかった。
 ジェイドは伏目がちに王子に向き直ると、必死にこれだけ言った。
「本当に……申し訳ありませんでした。ですが、あなた様がどう思われたかはともかく、わたしはそんな女ではありません。もう失礼してもよろしいでしょうか」
「……もちろん君は自由だ、ジェイド。では、また明日の朝会おう。今夜もよき夢を」
 『よき夢を』という言葉に皮肉さと濃密さが混じったような気がした。だが、疲れ果てていたジェイドは、そのまま逃げるようにパティオから部屋に戻っていった。


◇◆◇  ◇◆◇


 その夜、ジェイドは客室のベッドで悶々と寝返りを打つ羽目になった。自分はまだまだ未熟だとしか言いようがない。ああいう場など、要領よく切り抜けなくては、この先やっていけないのに……。
 それにしても、会ったばかりの相手に唇をゆだね、激しいキスに情熱的に応えてしまうなんて。その上、この手で王子を引っぱたいてしまった。もう最悪だわ……。
 それもこれもあのおぞましい夢のせいだ。ああ、自分は知らないうちに、見ず知らずの男に身を任せたくなるほど、欲求不満の塊になっていたのだろうか? もっと早く精神鑑定を受けておくべきだったと、どんなに後悔しても後の祭りだ。

 それでも疲れには勝てず、いつしか眠りにひきこまれていったらしい。夢の中で、いつもよりさらに濃密な激しい愛を交し合う自分と王子の姿が見えた。すでに知っている彼の唇の感触。まるで本当に身体中に口付けを受けながら、荒々しく貫かれているような感覚に、思わず叫び声をあげてしまう。

 激しい呼吸とともに夢中で目を見開くと、窓からいつの間にか朝の光が差し込んでいた。


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13/10/25 更新