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「ここが……」
 王子に続いて車から降りながら、ジェイドは街より一段高い丘の上に建った、レンガ造りの城砦を見上げた。今、あれほど訪れたいと思っていたアルハンブラ宮殿の前に来ている。それもアシュラフ王子本人とともに……。

「どうだい? 懐かしき『赤い城』は……。かつて、ここは我らの王城だった」

 かつて……? 我らの王城?
 まるで以前住んでいたことがあるような口ぶりだ。奇妙な言い方だが無視することもできなかった。
 ジェイドは黙って王子の浅黒い端正な顔を見つめた。この人もやはり、わたしのように奇妙な夢を見ているのだろうか? 普通なら理解不可能なことを当然の如く口にするなんて……。

「おいで、ジェイド。こっちだ」

 アシュラフが振り返り、その碧の目にこもる暗黙の問いを理解したように頷くと、彼女の手を取って歩き出した。付いて行きながら、奇妙な安らぎのような感情に胸が満たされていくのを感じる。
 本当に、こんな展開になるとは予想もしなかった。軽い眩暈を感じながら、ジェイドは王子とともに歩いていった。


◇◆◇  ◇◆◇


 アルハンブラは、よく紹介されている宮殿内の絢爛豪華な内装とは裏腹に、外観は質実剛健そのものだった。高い丘の北側は自然の絶壁、南側は厚い壁に守られている。普段は王の住まいだが戦時にはそのまま軍事上の砦として使われていたらしい。
 すでに入場の順番を待って並んでいる観光客もいたが、アシュラフはかまわずどんどん奥に入って行った。
「入場料を払わなくてもいいんですか? あなたがシークだから?」
 思わずそう尋ねてから、何と馬鹿げた質問だろう、と感じた。この人は、この宮殿の主だったのだから。
 本当はスペインの文化遺産なのに、彼と居るとなぜかそう感じられて仕方がない。だが、やがて立ち止まった彼の説明は、もっと現実的なものだった。
「それは関係ないよ。だが、我が祖先の大切な文化遺産だからね。及ばずながら僕も、グラナダの文化財保存協会の理事を務めているんだ。ささやかな寄付もしている。おかげでここに入るのは簡単なのさ。そして一般の観光客では入室できない部屋にも入ることができる。今日だけはありがたいことだな」
 納得して、そのまま待つうち、年代ものの大きな鉄の鍵束を持って案内人がやってきた。彼とジェイドを宮殿の奥へと連れて入って行く。背後から運転手が左右に目を配りながら付いてくる。
 庭園から建物に入ると、たちまち頭上に幾何学模様の装飾を施した壮麗な天井が広がった。これらを確かにどこかで見たような気がする。それも夢の中で、だっただろうか。
 初めて実物を目の当たりにして、ジェイドの碧の瞳が大きく見開かれ、きらきらと輝き始めた。波立っていた感情までが不思議にすっと落ち着き、解放されていくような気がする。唇に自然と笑みが浮かんだ。
「何だか嬉しそうだな」
 彼の皮肉な呟きにも、つい笑顔で答えていた。


 やがて二本の柱の間に金張りの椅子の置かれた場所に出た。案内人達を待たせ、アシュラフはジェイドを伴い、さらに奥に入った。

 日光が差し込む中、金銀の装飾で飾られた空間を眺めているうち、少し離れて立つアシュラフの姿が、ターバンと王衣(ローブ)をまとった姿に変わった気がして、はっと目をしばたかせた。王である彼が、大勢の家臣にかしずかれながら、政務を執っている情景が浮かび上がり、そして消えていく……。

 ここは、王の謁見の間だったんだわ……。

 ジェイドは懸命に瞬きして、現実に立ち返ろうとした。生々しい幻が目の前から消え去ると同時に、ずきんと激しい頭痛がした。思わずよろめいてこめかみに手を当てる。

「どうかしたのか?」
 それまでじっと自分を見ていたらしい彼が、一歩踏み出すと彼女の体に手をかけて支えながら、静かに問いかけた。慌てて首を横に振る。
「い、いえ、何でもありません。ただ、急に少し立ちくらみがしただけで……」
「なるほど、顔色があまり良くないな。気分でも悪いのか?」
 彼女の顔を覗き込み、眉をひそめている。
「大丈夫ですから……」
「ジェイド」
 業を煮やしたように、腕を掴む彼の手に力がこもり、言葉が性急さを増した。
「素直に応えてくれ。今、何か感じることはないか?」

 たった今不意に襲われた形容しがたい感覚を、彼に打ち明けるべきだろうか。迷いながら、自分を捕えている手に手を添え、ジェイドは困り果てたように彼を見た。唇が「アシュラフ……」と動いたが、口に出たのはごくありきたりの言葉だった。
「少し日差しがまぶしかったんです。それだけですわ」
「そうか……」
 そう言いながらも、まだ探るような眼を向けてくる。自分の一挙一動に揺らいでいる感情までも見透かされている気がして、落ち着かない。だが、やがて彼は一つため息をつくと、彼女から手を離した。
「来るんだ。他の部屋にも案内しよう」

だが再び歩き出そうとした彼を、ジェイドは頑なに引き留めた。
「その前に、どうしても聞かせていただきたいことがあります」
「なんだ?」
「どうして、わたしをここへ連れてきたんです? それともあなたはお知り合いの方全員に、このお城を案内されるんですか?」
「おやおや、僕の交友関係がそんなに気にかかるのか?」
「そ、そういう意味じゃありません! ただ、どうしてなのかとお尋ねしているだけです」
 声が震えてしまう。答えが知りたいのか知りたくないのか、自分でも測りかねていた。
 しばらく考え込むように黙っていた彼が口を開いた。
「もちろんそんなことはない。直接連れてきたのは君が初めてだ」
「どうして?」
「……その理由を言葉で説明しようとすれば、途端に陳腐で馬鹿げた御伽噺になってしまうだろう。だから、ただ見て、感じたことを聞かせて欲しいんだ。もし君が、僕の求めていた運命の相手なら、きっと何か……感じてくれるはずだから」
「求めていた運命の相手?」
 困惑した表情でそのまま繰り返す。彼の燃えるようなまなざしが、一層ジェイドを捉えて離さなかった。
「おかしなことを言うと思うかい? それなら、笑ってくれてかまわないよ」

 ジェイドは否定するように黙って首を振った。笑う気にはなれなかった。少なくとも昨夜の出会いから、何かがはっきりと変わったような気がする。グラナダに来て、まだ一日も経っていないのに、ずいぶんと時が流れたような気がした。ここに来た本来の目的――インタビューの仕事――さえ忘れそうなほど、強烈な何かがまるでハリケーンの渦のように二人を取り巻いている。

 彼の云う通りだ。もし運命の物語とかいう奇妙な話を断定的に聞かされたとしても、素直に「はいそうですか」と、信じられる筈がない。
 自分がよく見ている夢の謎も、きっと自分で解くしかないのだろう。その鍵はまさに今、ここにあるのだから……。

 ジェイドはようやく決心したように、彼を見た。
「わかったわ。とにかく先に進んでみます」
 見つめる彼の瞳が陰りを帯びた。再び体を引き寄せられ、唇が覆い被さってくる。親愛の情のこもった優しいキスだった。だが舌先でまさぐられるうち、こらえきれず唇を開く。途端に触れ合う唇に熱がこもった。だがもう何も押さえる必要はない。そう彼女の本能が告げていた。今は彼の与えてくれる悦びを知るべき時だと……。
 ジェイドはしばしその口づけがもたらす歓喜に身を委ねた。彼女の降伏を感じ取ったように、キスがどんどん激しくなる。

「君はまるで熱い蜂蜜酒のようだな。味見するだけで中毒になってしまいそうだ……」
 ようやく顔を上げたとき、彼が深い吐息とともにつぶやいた。二人とも少し息が乱れている。
「君が、我が【ファム・ファタル】であることを、心から願っているよ」
 ジェイドは震える指で唇を押さえ、一歩後ずさった。だが彼はただ前方に目を向けると、遠い時の彼方に目をこらすようにして言った。

「では、次へ行こう」
「今度は何があるんです?」
「かつて、王の寝室だったという部屋だ。事実とは少し異なっているがね」


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13/11/05 更新
簡単な後書きなどを、ブログにて。