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「ここに入るのも、僕達二人だけだ」
アシュラフは、ドライバー達に待っているよう指示すると、パティオから続く部屋に入っていった。
 一歩足を踏み入れた途端、ジェイドは急に古えの何かの霊気に取り巻かれたような奇妙な感覚に陥った。大きく息を吸い込んだまま、しばらくじっと立ち尽くす。
 そこも一見、他と変わらない展示室のようだった。目の端で壁に貼られた【王の私室】という小さなメタルプレートを確認し、おそるおそる数歩踏み出してみる。金糸の織り込まれた古いカーテンのかかる寝台に近付くと、そっとその端に触れた。

 ふいに意識の彼方から脳裏にある情景が流れ込んできて、ジェイドの目の前に広がった。
 幾重にもめぐらせた彩り鮮やかなカーテン、寝台の上のガチョウの羽を詰めたクッション、幾何学模様の装飾が施された馬蹄形の窓の向こうに見える夜空と、朧ろにかかる半月……。
 そしてそのカーテンの下、絹の寝台の上で熱く甘く身体を重ね、睦み合う男女の姿が見えた。男はたくましい身体からあふれんばかりの力を惜しげもなく女に注ぎ、女はその柔らかな肉体を惜しみなく男に捧げ尽くしている。互いの唇から満ち足りた甘い吐息が漏れ、やがて充足した身体を互いにもたせかけながら、窓から二人で月を見上げる。

「あ……」
 必死に瞬きし、救いを求めるように辺りを見回した。そして、静かにじっと自分を見つめているアシュラフと目が合う。
 途端に、ジェイドの目から涙が溢れてきた。理由もわからないまま、自分でも驚くほど熱い涙が……。

 いったい、どうしたというの?
 自分が悲しい訳ではない。その涙は自分ものであって自分のものではないようだった。遠い歴史の彼方にずっと埋もれていた、熱い愛と万感の思いのこもった涙……。以前から繰り返し見ていた夢と一瞬垣間見た幻とが、彼女の中で融合し、決定的な変化をもたらしつつあるような気がした。

  そう、あの女はわたしだ……。ここで、この部屋で、わたしは、わたし達二人は……。

 ずっと夢で見てきた悩ましい場面との符号も合っている。そして、この人と出会った瞬間に感じた激しい衝撃と、あの何とも言えない歓喜の意味も。

 だけど……。
 もし、それを認めたら、自分はどうなってしまうのだろう?
 もう元の自分には戻れないのではないか。そして、それから? その後はどうなるの?

 溺れる者が掴まるものを探すように、ジェイドは彼に向かってよろめくように一歩踏み出した。その途端、激しい立ちくらみがして、身体がぐらりとかしぐ。
 倒れそうになったとき、咄嗟に伸びてきた力強い腕が彼女を抱き止めてくれた。そのまま無言できつく抱き締められたとき、ついに探し求めていた場所に帰り着いたような深い安堵感を覚え、すすり泣いてしまう。
「ジェイド……」
 頬の下にある彼の心臓も、轟くように激しく脈打っていた。胸が大きく隆起している。何か言いたそうだが、まだ黙ったまま荒い息をつきながら、彼女が落ち着くのを待っているようだった。
 ジェイドはただ彼の胸に顔をうずめていた。涙がとめどなく顔をぬらし、彼のシャツも濡らしていく。
 アシュラフが、とうとう焦れたように彼女の顔を押し上げると、切羽詰まった声で尋ねてきた。
「ジェイド、何か思い出したんだな? 正直に答えてくれ。『君も』アルハンブラの夢を見ているんだろう?」
「えっ?」
 『君も?』
 聞くのが怖い。だが考える前に言葉が勝手に飛び出してしまっていた。
「それじゃ、もしかしてあなたも?」
 彼の目は、今や黒い炎が燃えているようだった。
「ああ、いつも見ている。ここで君を抱き、共に情熱を分かち合いながら絡み合って過ごしている夢を……ね」
 その言葉に、ジェイドの顔がかぁっと赤くなるのを見て、にやりとする。
「ま、待って。待ってください……」
「君も、こんなに脈が激しくなっているじゃないか。もう否定できないだろう?」
 彼女の胸に手をはわせ、狂ったように打っている彼女の心臓の鼓動を長い指が確認する。ジェイドの身体にまた震えが走った。
  「君も感じているんだろう? この部屋で狂ったように愛し合ったあの夢を、君も見ているんだ。ほら、君自身の身体が反応している。嘘をついても駄目だよ」
 火照る体をしっかりと捉えられ、その手で誘惑するように胸をまさぐられるうち、膨らみの頂が硬くなり、身体の芯がうずき始めるようだった。もう離さないとばかりにしっかりと抱き締められながら、ジェイドは降伏の時が近いと悟った。わたしは、この人に強烈に惹かれてしまっている……。
 出会った時から? いいえ、実際に出会うずっと前からだ。夢の中でわたしが強く会いたいと、探し求めていたのはこの人だった!

「アシュラフ……、ああ、アシュラフ。わたしには、よくわからないわ。でも……」

 まるで初めて彼に気付いたように、驚きを込めて彼の名を呼び、震える指でその頬から首筋へと触れていく。彼がびくっとしたように身震いし、ゆっくりとジェイドの手をとって口付けた。黒い瞳が、彼女の表情の変化を執拗に探っている。
「もう一度呼んでくれ。僕の名前を」
「アシュラフ、アシュラフ王子……。あなたが、わたしのスルタン様だったなんて……」
「おお、我がファム・ファタルよ、アッラーに感謝を!」
 感極まったように声を上げ、彼が一層激しくジェイドを両腕でかき抱き、きつく胸に抱き締める。
「昨夜、君にキスしたとき、もしやと感じた。君をここに連れて来ようと直感的に思ったのは、あの時だ。やっぱりそうだった。君が僕の運命の恋人だったんだ!」
 満足げな視線に捉えられ、今にも、ええ、そうよ、と叫びそうになる。


 だがそのとき、夢の中で愛し合っているさ中に、王が発した物悲しげな言葉を思い出した。そして、悪夢のような最後の場面も……。

 あれは、どういう意味だったの?

 第一……、現実、どうして、わたしが彼の運命の恋人になれるだろうか?
 もちろん、彼と自分を取り巻くこの不可思議な夢のシンクロニシティを否定するつもりはない。心理学の世界でも、そういう不可解な現象は時々確認されている。けれど、現代を生きる自分達に『運命』などナンセンスだ、と片付けてしまえば、それまでではないだろうか?
 

 少し冷静になってくると、理性と現実が立ち戻ってきて、たった今すぐにも彼に身をまかせてしまいそうになっている激情にぐっと歯止めをかけた。ジェイドは返事に困ったように俯き、自信がなさそうに応えた。

「……そんな風に言い切ってしまうのも、どうかと思うわ。もっと理性的になって、現実を考えてみなくては……。あっ、痛い!」
 はっとしたようにジェイドを見たアシュラフの全身が、極度に緊張した。彼女の二の腕を掴んだ手にぐっと力がこもり、まるで握りつぶさんばかりだ。
 ジェイドは痛みに呻き声をあげて身を引こうとしたが、彼の指はがっちりと食い込んで離れない。痛さに顔をゆがめているのもかまわず、激情に駆られたように、彼女を荒々しく揺さぶった。
「では否定するのか? 何もなかったと、僕を見ても、この場所を見ても、全く何も感じなかったと、そう言い切れるのか? どうだ、それもできないだろう!」
「待って! お願いだから、そんなにせかさないで! わたしは、いつもここを見ながら過ごしてきたあなたとは違うのよ。第一、明日にはアメリカに帰らなければならないんですから!」
 ほとんど悲鳴のような声だった。やっと気付いたように緩んだ手から解放されたとき、ジェイドは荒い息をつきながら、自分の立場を懸命に訴えていた。

 王子は彫像のように突っ立ったまま、まるで心の中で何かと格闘するように、しばらくじっと目を閉じていた。やがて、ようやく落ち着きを取り戻したようにこちらを見た。腕をさすっているジェイドに向けた眼差しの、その冷たい光にぎくりとしたとき、感情を消した声が淡々と告げた。

「……よかろう。嫌がる女に何かを強要するつもりなどさらさらないからな。ただ、これだけは約束してくれ。今日この場所で、また何か感じたことがあれば、正直に僕に告げると」
「いいわ。わかりました」
「では、外へ出よう。我々の千一夜も、そろそろ終幕のようだ」


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13/11/08 更新
続きも頑張りますので、もう少しお待ちくださいです〜。
どーでもいい後書きなど、ブログにて。