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 アドリア海の女王と呼ばれた、水の都ヴェネチア……。

「9月なのに、まだ暑いな」
 イタリア北部、ヴェネト州のマルコポーロ空港から続く運河の街を水上タクシーで進みながら、ラファエロは薄手のジャケットを脱いでつぶやいた。
「まもなく、サンマルコ広場に出ますよ。どこかでお食事でもなさいますか?」
「もうそんな時間かい?」

 貴族の末裔らしい身のこなしで白いシャツの袖をまくりながら、行き過ぎる運河沿いの細長い敷地に設けられたピッツェリアに目を向けた。

 ふと、彼の目にそこでサービングしている金褐色の髪の娘が飛び込んできた。ほっそりした肢体できびきびした中に洗練された優雅さをもって動き回っている。背 も結構高そうだ。とにかくひどく人目を引いた。

「停めてくれ!」 
 唐突に声をかけられ、面食らった操舵士がやっと数十メートル先の停泊所にボートを泊めると、彼は一緒に来るように言って、舗道に上がっていった。
 ゆっくりとそのピッツェリアに近付き、端の方に席を取る。その目はなおも彼女を追いかけていた。
 じっと見ているうちに、当の本人が視線に気付いたように振り向いた。目が合った瞬間、その淡い海のような瞳に射られたようにはっとする。こんな感覚はついぞ 味わったことがない。向こうも彼と目が合い、少し戸惑ったように見えた。

「ブォンジョルノ、シニョリーナ」
 緊張した内心とは裏腹に、ラファエロはいたって気軽に声をかけた。銀のトレーを手に、彼女が気を取り直したように近づいてくる。
「いらっしゃいませ。御注文はお決まりですか?」
 目の前の彼女は、ゆったりしたストライプシャツにジーンズ、赤いエプロンという極めてありきたりの格好だったが、確かに美しいと思った。
 美人など見慣れているはずなのに、珍しく好奇心をかき立てられている。もう少し知り合いになるためには……。

「君のお勧めは何かな?」
 メニューに視線を落とし、何気なく問いかける。普段ピザはあまり食べないが、やむを得ないだろう。
 彼の問いに少し黙って考えていたが、やがて挑戦するように目をきらめかせるとメニューをいくつか告げた。
「じゃあ、それ全部持ってきてくれよ」
「全部ですって? 五人分くらいになりますよ?」
 驚いたように見開かれた瞳は、まるで澄んだブルートパーズだ。その反応に満足し微笑み返す。
「大丈夫さ。連れもいるしね」

 人懐っこい笑みを見せて、いきなり五人分のピザとパスタを注文したその客を、ルシアは呆気に取られて眺めた。何、このイタリア人は?
 当たりはソフトだが、自分の言葉は聞かれて当たり前、とでも思っているような態度だった。事実、いつも周りを従わせているのだろう。何気無く着ている仕立て の良さそうなシャツとベスト、手首のロレックスの腕時計に目を走らせて納得する。
 きっと、苦労知らずのお金持ちね。一番嫌いなタイプだわ! 反抗心がむくむくと頭をもたげてきた。

軽くウィンクした男を無視し、ルシアは厨房に戻るとコックに彼の注文を告げた。コックもヒューっと口笛を吹く。
「あいつは君が目当てだな。結構じゃないか。せっかくいるんだ、もっとうちの店をPRしてくれなくちゃ。最近、売上げが落ちてるんだからね」
「まぁね、わかってるわ」
 しぶしぶ頷く。やがて出来立ての熱々ピザの載ったトレーを両腕に載せて歩き出した。

「たくさん召し上がれ」
 ヴェネチア名物の魚介類をふんだんに使ったパスタやピザをテーブルにどんどん並べながら、会心の笑みを浮かべた。喉にでも詰まらせたらいい気味かも。だが、 次の言葉にまた驚いてしまう。
「なるほど、確かに多いな。じゃ、君もここにお座りよ」
「あの……、困るんですけど、わたし。仕事中なので」
「さあどうぞ、遠慮しないで」
 彼はそのまま立って、屈託のない笑顔で彼女のために椅子を引いて待っている。
 その態度があまりに自然なので、とげとげしかった気持が少し和んだ。

「ランチタイムも過ぎたことだし、別に構わないさ。せっかくお客様がこうおっしゃってくださってるんだ。あんたも少し休憩したらいいよ」

 背後から近づいてきた店の主人、アンジェラ伯母がふいににこやかに口を挟んできた。太った体をゆすりながら、見るからにご機嫌のようだ。店長にまでこう言わ れ、ルシアも口をつぐんで、とうとう座ってしまった。

「そう、それでいい。カーラ、君の名前は?」
 カーラですって? 英語で言えば『ダーリン』に当たる、もっぱら恋人や家族を呼ぶときに使う言葉だ。それを初対面の相手にすらっと口にするなんて、やっぱり イタリア男って……。むっとして無愛想に応える。

「……ルシアですけど」
「ルシアだって? なるほど。サンタ・ルチアか!  彼女が伯母さんってことは君もヴェネチア人なんだね?」
「いいえ、イギリス人です。わたしの母がヴェネチア生まれでしたので」
「イギリス人? 確かにイギリスからの旅行者は多いが。それじゃ、いつからこの店にいるんだい?」
 半年前に通ったときは、まだ見当たらなかったな、などと思い返しながら続けて問う。
「まだ二週間くらいです。でも、そんなこと貴方に報告する義務はないと思うわ」
「義務はないけど、君のことがもっと知りたいんだよ。イタリア語も結構上手だね。うん、このパスタ、なかなかうまい! 君ももっとお食べよ」

 上品にフォークを動かしておいしそうにあさりのパスタを食べている彼を見ているうちに、おなかがすいてきた。そういえば昼食もまだだった。ついに目の前にど んと置かれたピザの皿から一切れとって食べ始める。いつの間にかアンジェラも傍に座って、陽気な目を輝かせて口を挟んできた。

「この娘はねぇ、わたしの自慢の姪っ子なんですよ。イギリスではファッションモデルなんかもやっててねぇ。どうです、美人でしょうが?」
「伯母様! 今は関係ないわ」

 慌ててアンジェラを止めようとするが、彼女の口は一度開いたら簡単には止まらない。

「見てのとおり、たいした器量よしでしょう? 何とかって有名なファッション雑誌の表紙にも載ったくらい人気だったんですがねぇ」
「へぇ、本当なのかい?」
「まさか!」

 次第に、男が興味深げにルシアの顔を見直し始めたので、慌てて打ち消した。
 だが伯母が「ほら、まぁ見てやってくださいよ」と、店からくだんの雑誌まで持ってきてしまった。
 話を聞きつけた周りからも客が集まってきて、万事休すとなる……。


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15/9/25 更新
一年ぶりですか、やっと更新できました〜〜!!
とにかくうれしいです〜(T▽T)
お越しくださった皆様に感謝を込めまして。
またしばし、お付き合いくださいませ。