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「本当によくやってくれたね。やったよ、君は合格したんだ、ルチア!」
 興奮を隠せないと言わんばかりに両腕を広げて抱き締めようとする。
「合格って……、なんのことかしら?」
 彼の抱擁を避けるように後ずさり、彼女が冷たく問い返したので、彼も立ち止まって眉をひそめた。
「もちろん、『僕の婚約者として』だよ、カーラ」
「婚約者ですって!? いつわたしがあなたと婚約したの?」
「今夜、ついさっき、かな?」

 言いながら、ラファエロはもう一度彼女を抱き締めようとした。だが、ルシアは再び数歩後ずさると、困惑顔の彼に強い非難のまなざしを向け、いやいやと言うように頭を振る。
「ルチア? どうしたんだ? せっかく認めてもらえたのに嬉しくないのかい?」
「いつ、わたしがそんなことを望んだの? 第一、あなたが伯爵家の御子息様だったなんて、全く聞いていなかったわ!」
「そうだったかな? だけど、別に大した問題じゃないだろう?」
「問題は大有りよ! わたしにとってはね!」
「何を怒ってるんだい? 普通なら怒るより、むしろ喜ぶべきところじゃないか?」
「喜ぶべきですって!? そうよね、あなたがこれまでお付き合いされてきたお嬢さん達なら、きっとそうでしょう。わたしも多分、光栄ですって涙を流して、あなたの前にひざまずくべきなのかもしれないわ」
「……随分辛辣じゃないか、ルチア……。怒ったのか? 黙っていたことは謝るから、もう機嫌を直してくれないか。ほら、キスして」

 甘く囁き、今度こそ有無を言わさず彼女を抱き寄せたラファエロの腕から逃れられず、ルシアは彼に抱かれながら泣きたい気持で訴えるように言った。
「あなたに何がわかるの? 知っていたら、こんなところになんか決して来なかったのに……」
「どうしてさ? 君は貴族が嫌いなのかい?」
 心外だ、とばかりにムッとした表情で見つめる彼に、「わからないのね?」と呻く。
「だって……、世界があまりにも違いすぎるじゃない」
「大丈夫さ、僕だって滅多にパーティになんか行かないよ」
 ほっとしたように、笑みを浮かべて宥めようとする。
「今は少し驚いてるだけさ。君なら大丈夫だ。さっきので充分、誰も文句のつけようがなかったじゃないか」
「でも、結婚となったら、多分難しいと思うわ」
 つい皮肉な微笑を浮かべる。我知らず気持が高ぶり、目から涙がこぼれ始めた。
「わたしは名家の御令嬢じゃないわ。ただのガラス職人とウエイトレスの娘よ? 子供の頃はずっとイーストエンドの酷い所に住んでいたの。あのご立派な方達に知れたらどういう目で見られると思う? 馬鹿にされる? いいえ、もしかしたら、人間扱いしてもらえないかも……」
「ルチア! もういい、わかった!」

 唸るような叫びと同時に、突然唇を奪われていた。ルシアもそれ以上何も言えなくなってしまった。重なる胸の鼓動が激しく鳴っている。震える唇に押し入るように入ってくると、幾度も深く激しいキスを繰り返す。ようやく唇を離すと、彼は涙にぬれた美しい顔を覗き込んだ。彼の真剣そのものの黒い目に圧倒されそうになる。

「そんなこと、問題じゃない。一番問題なのは……君の気持だよ。正直に聞かせてくれ。君は僕をどう思ってる?  もう気が狂いそうだ!」
「わたし……?」

 ためらい、彼をじっと見返した。ここ数日のわたしの心の動揺はいったい何だったの? あの喜びと心のときめき。そう、これはきっと……。
「わたし、きっとあなたを愛してるんだわ……」
 呟くように口にした途端、呻き声とともにきつく抱きしめられた。
「ああ、サンタ・マリア、感謝します。そう、アモーレ、その言葉だけが聞きたかったんだ!」
 ふいに、彼の両腕に抱き上げられた。彼の心臓の鼓動が耳の下に聞こえる。驚いて声もなく見上げるルシアの目を、迷いのない黒い瞳が捉えた。
「君は僕のものだ。君が欲しい、今すぐに」
 その言葉はルシアの耳を通って、心臓にまっすぐすとんと落ちてきたようだった。彼の真剣そのものの眼が焼き尽くすように見つめている。嫌なら今すぐ言ってくれ、と無言で伝えていた。
 彼のまなざしを受けとめるうち、不思議と気持が落ち着いてきた。そう、わたしもきっと、それを望んでいたんだわ。心のどこかで……。
「ええ、いいわ……」
 そのままベッドに運ばれ、サテンのシーツの上に下ろされたとき、ルシアも心から微笑んで彼に応えた。欲望に燃える瞳と唇、覆いかぶさってくる熱い男の体を、震える身体でしなやかに受け止める。経験がない彼女はひたすらに本能に導かれるまま動いた。彼の指が探り当てる快楽に恍惚となり、とうとう思いがけない悦びに引き裂かれて、自分でもわからないまま叫び声を上げる。
 その夜、ただ情熱に任せて交わした愛は、運河の流れのように二人を深みへと引き込み、ついに遥かな大海にまで押し流していった。

「おはよう」
 暖かなぬくもりに包まれてまぶたを開くと、明け方の光の中で、ラファエロが目を細めて自分を見つめている。
 昨夜の出来事を思い出し、照れたように微笑み返すと、彼はルシアの髪に額に頬に唇に、心行くまでキスを始めた。それからもう一度、熱く全身を包み込む。
「君と出会えてよかった。出会わせてくれたヴェネチアの守護聖人達に、心から感謝しているよ」
「わたしも……」
 至福の時が、たゆたうように過ぎていく。
 


 ルシアがシャワーを浴びている間に、ルームサービスが届いていた。まだガウン姿のまま、二人でゆっくりと食事をしていると電話があった。ラファエロの母、サンマルティーニ伯爵夫人からだ。彼が眉をひそめて出る。
「母上? これは朝から、何かありましたか?」
「聞いてちょうだい。たった今、モデルが一人足をくじいてしまったの。今病院で手当てを受けているわ。ただ代わりが勤まるような手隙のモデルがいなくて……。ラファエロ、あなたのお嬢さんと一緒に、ちょっと来てくれないかしら。大至急よ」



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15/11/1 更新