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「そうなのですか?」
 明らかに安堵した顔の伯爵夫人に微笑みかけ、「はい」と返事をすると、ロザンナをちらりと返り見て、軽蔑したように付け加えた。
「ラファエロも、余程ロザンナさんがお嫌だったようですわ。でもたった今、その理由がわかりました。どうぞもっと素敵な方を見つけて上げてください」
「ルチア!? 何を言って……」
「では、わたしはこれで」
 それだけ言うと、何よ、失礼ね、と怒り出したロザンナも無視し、もう振り返りもせずに立ち去って行く。
 ラファエロは慌てて二人を残したまま、ルシアを追いかけた。
「ルチア! 待ってくれ!」
 だが、ようやく取った手も、冷たく振り払われてしまう。
「皆さんが見ているわよ、ラファエロ」
「ルチア?」
 ひどく覚めた目付きで見返され、驚いてしまう。今朝、心も体も全てをさらして抱き合った相手とは思えないほどだった。あの親密さはどこに行ったのだろう。今や取り付く島もなく、完全に出会った日のそっけない彼女に戻ってしまったようだった。
「ルチア……、これからどうするつもりだい?」

「シニョール・レオパルディ!」
 ふいにルシアは彼を振り切ると、向こうから来たデザイナーや監督達に歩み寄って晴れやかに挨拶しはじめた。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったですわ。いいえ、わたしはこれで失礼します。ごきげんよう、シニョール・サンマルティーニも」
 最後に笑顔で振り向いた彼女に、ラファエロはなおも懸命に訴えを試みた。
「待ってくれ! ルチア! 頼むから話を聞いてほしい……」 
「アディーオ」(さようなら)
「君を愛してるんだ!」
 必死の叫びも、彼女に届いたかどうかわからなかった。ただ永遠の別れを告げる言葉を投げかけられ、絶句して立ち尽くす。

 ラファエロの燃えたぎるような視線を背中に感じながら、ルシアは涙でかすむ前を見つめ、堂々と会場を後にして歩いていった。懸命に、一歩一歩……。
 泣いちゃだめ。これがわたしの最後の舞台。後で一人になってから、思う存分泣けばいいもの。



 ヴェネチアに戻るなり、何の説明もないままイギリスへの帰り支度を始めた彼女に、アンジェラもとまどいを隠せなかった。
「まぁまぁ、帰ってくるなり荷造りだなんて、どうしたんだい? いつまで居てくれたっていいのにさ」
「伯母様、色々と本当にありがとう。でも、帰ってまた自分で頑張ってみたくなったの」
「またモデルになるのかい?」
「ならないわ」
「じゃあ、何をするつもりなの?」
 ひどく残念がる伯母に、ルシアは吹っ切れたように明るい笑顔を見せた。
 ラファエロのことは何も聞かれなかった。何も話そうとしない姪の態度から、暗黙のうちに何か察してくれたようだ。
 アンジェラが困惑しながらも、またいつでもおいで、と見送ってくれる中、ルシアは一人、マルコポーロ空港から飛び立っていった。



◇◆◇   ◇◆◇



 ロンドンに戻ってからしばらくは、怒涛のように日々が過ぎていった。
 まず以前よりも、こじんまりした安いアパートに引越すと、休学していた大学に再び通い始めるよう手続きに行く。

 ファッションモデルとして、久しぶりに立ったミラノコレクションのことは、当然のようにロンドンでも話題になっていた。モデルクラブからも注目され、エージェントを通し少なからぬオファーが舞い込みもした。
 しかし、ルシアは惜しげもなくいったん全てリセットしてしまった。もうカレッジの残りの学資は何とか溜まっている。生活費の足しなら、またウェイトレスのアルバイトでもすればいい。

 意外なことに、今の自分にとって、モデルよりもラファエロを失った痛みが一番強く堪えていた。その血が流れるような痛みに比べれば、モデルとしての地位などはどうでもいい、と思えるほどだ。

 喪失感を埋めるため、カレッジのアトリエにこもって、自分のガラス工芸作品作りに没頭し始めた。そして夕食時だけ、ピカデリーのカフェでアルバイトをする。バイトの後、簡単に食事を済ませて部屋に戻るころには、くたくたになっていた。
 今、小さな部屋の棚には、父親の作品と並べて、ラファエロがくれたヴェネチア硝子のゴブレットを飾っている。一日の終わりに取りあげて見るのが日課になっていた。
 後悔はしていない。それでも時折ふと涙がこぼれそうになる。その度に、あれは束の間の夢だったのよ、と自分に言いきかせた。
 けれど同時に、彼の最後の言葉を振り切って逃げ出してしまった自分の弱さ、勇気の無さを苦々しく思うこともある。
『愛してるんだ!』
 そう叫んでくれた彼の言葉は、今も耳に焼き付いていた。一夜限りの愛を交わした夜、彼が与えてくれた全ての記憶とともに……。
 でも、わたしが伯爵夫人になんかなれっこないもの。だからもう十分でしょう?

「いらっしゃいませー」
 カフェの閉店間際、店のドアが開いて入ってくる客の気配に、ルシアの物思いは破れた。声を上げて振り向くなり、視界を覆い隠すほど大きな花束が無造作に差し出されて、驚く。
「ああ、まだこんなバイトをしてるとは! もうちょっと今の自分の立場をわきまえて欲しいものだね!」
 花の向こうから、あれほど聞きたかった懐かしい声がして、はっとする。
 う、うそよ……、彼がこんなところに居るはずがないもの……。
 だが、次の瞬間、花束は脇のテーブルにばさりと置かれ、待ちきれないようにぐいと引き寄せられた。
「ルチア、さあ、一緒に帰るんだ」
 驚きのあまり目をぱちくりさせながら、恐る恐る目を上げると、スーツ姿のラファエロが、にらみつけるような目で見下ろしている。
「あ、あなた……、ラファエロ? こんなところで一体何をしているの?」
「当然、君を迎えに来たのさ。他に何の用があるんだい?」
 絶句しているルシアに、ふふんと鼻先で笑って皮肉な声で続ける。

「僕も思い込んだらあきらめが悪い質でね。両親もついに、早く君を連れて戻るようにと言ってくれたよ。説得と君を探し出すのに、多少時間がかかったのは認めるけどね」
「………」
「あのとき言っただろう? 僕は君を愛してる。君も僕を愛してる。やっと君を見つけたんだ。うんと言うまで、ずっとここに居座ってやるから覚悟するんだね」

 ああもう全く。イタリア人はやっぱり手に負えないわ……。

 出会った日と同じく、周囲の客がまたしても何だ何だ、と集まってくる中、ラファエロは周りの視線など全く歯牙にもかけずに、ただ真っ直ぐにルシアだけを見つめている。
 その迷いのない頑固な瞳を見ているうちに、ルシアの目から大粒の涙が溢れてきた。指先で涙をぬぐいながら、にっこり笑って応える。
「それじゃわたしには『Si』って言うしか、選択肢はなさそうね」
「やっとわかったのかい、僕のルチア(聖女)」

 ラファエロの腕に抱かれながら、ルシアはようやく我が家に戻れたような、深い安らぎと喜びに満たされていった。


〜 fine 〜

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patipati
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15/11/11 更新
あとがきとお知らせなどを、ダイアリーにて。。。