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「それで、そんな人気モデルさんがどうしてこんな所でサービングしてるの?」
「いやー、美人には弱いんだ、俺。どう? 今からデートしない?」

脇から男達が興味本位で飛ばしてくる軽口を無言で受け流し、ルシアはいそいそと雑誌を持って店に戻っていく。その後ろ姿を見ながら、ラファエロもアンジェラ にさりげなく尋ねていた。
「僕も、大変興味がありますね。そんな女性が、どうして今ここでサービングなんかしてるんです?」
「詳しいことは何も言わないんですよ。だけど、何しろ競争が激しい世界らしいから、ちょっと疲れたのかもしれないねぇ。こっちに来てからというもの、毎日あの 調子で……。ところで旦那、羽振りよさそうだけど、どちら様ですかい?」
「僕は市の環境団体に招かれて、地盤沈下の調査に来てるんですよ。大雨になると、この辺りも結構水が来ませんか?」
 にこにこと愛想よく答え、話はヴェネチアの地盤沈下の問題から、おいしいリストランテの話題へと、ひとしきりはずんでいた。



 妙に活気付いてしまった客達の間から早々に退散したルシアは、苛立ち紛れにやや乱暴に食器洗いを終えると、残り少なくなったサーバーにコーヒーをセットした 。

「もう、伯母さんったら、どうしてわざわざあんなこと言うのよ。もうモデルなんかやめるんだから、放っておいてくれればいいじゃない!」
「だとすれば、ひどく勿体無い話だと思うな」
 後ろから突然低い声がした。驚いて振り向くと、さっきの青年がカウンターに寄りかかって、けだるげな眼差しで自分を見ている。いつからそこに居たの?
 ルシアは慌てて言った。
「エスプレッソですか? すぐお持ちしますから」
 慌てて新しいカップを取り出そうとした彼女の手首を、不意に力強い男の手が捉えた。驚いて見開かれたトパーズ色の瞳の奥を覗き込むように、ハンサムな顔が間近にあった。心臓がどくんと音を立てる。一瞬の隙を付くように、彼の唇がルシアの頬に触れ、優しい軌跡を残した。
「な……に?」
思わず頬を押さえた彼女の反応を見ながら、彼が余裕の笑みを浮かべている。
「君への特別チップさ。また来るよ、ルチア」
 気前よくユーロ紙幣をカウンターに置いて、まだ呆気に取られているルシアを残し立ち去っていった。店の外で、アンジェラが「またおいでくださいね」と愛想よ く見送っている声がする。

な、なによ、なによ、あの男はー!

 続く午後の間中、ルシアはなぜかミスが多くなった。



◇◆◇   ◇◆◇



「サンタ・ルチア……か」
 その夜、ホテルに戻りシャワーを浴びて出てくると、ラファエロは楽しげに同名のイタリア民謡を口ずさみながら、窓辺に立った。大運河を望む三階の部屋から、向こうのサンマルコ寺院の尖塔がライトに照らされて見える。
 タオルで黒髪をふき取りながら、昼間出会ったルシアのことを思い返していた。こんなに興味が惹かれる相手に出会ったのは初めてかもしれない。よし、明日も昼時に覗いてみよう。

 ふと見ると、携帯に執事から『父上に早急にご連絡を』とメッセージが入っていた。先日の館での会話――ありていに言えば言い合い――を思い出し、一気に気が滅入ってくる。

『僕がロザンナと婚約? どこからそんな話が出てくるんだ? 結婚と引き換えに、自分の一生を棺おけにつっ込む気は毛頭ないぞ』
『しぃっ、お言葉が過ぎますぞ。アルバーニ家のロザンナ様は、お母上のお気に入りの御令嬢ですよ。お家柄も大変由緒正しいですし』
『そうだろうとも。どう見ても母と同じ人種じゃないか!』
 吐き捨てるように呟くと、執事は落ち着いた声でゆっくりと切り出した。
『それほどお気に召さないのでしたら、どなたか他の女性でも構わない、とお父上は仰せでございましたよ。もちろん、お眼鏡にかなうようなシニョリーナでなければならないでしょうが』


 そのとき携帯が鳴り始めた。今度はもっと厄介な相手、父のサンマルティーニ伯爵だ。顔をしかめたが、避けては通れないだろう。わざと明るい声で出る。
「これは父上、お変わりございませんか?」
「うむ、お前もな。来週ミラノで開くパーティの準備が大体整った。一族が皆参加する。お前も必ずパートナーを連れて来るようにな」
「今、特別なパートナーはいないと、以前申し上げたはずですが」
「ならばあきらめて、アルバーニ家のロザンナを選ぶがいい。お前ももう30になる。これは一族の後継者としての義務だと思うんだな」
 彼がいないところで、話が着々と進んでいるのだろうか? ぞっとして、思わず携帯を握り締めて声を高めた。
「お待ちください、父上! 実は今、真剣に付き合っている人がいるんです。では、彼女を連れて行きます!」
「ほぅ。お前にそんな相手がいたとはな。母上も驚くだろう。もちろん由緒正しいイタリア人だろうな?」
「ヴェネチア人ですよ。まさにアドリア海の宝石のような女性です」
「では、楽しみにしているぞ」

 切れた電話をにらみつけ、彼はしばらく呆然としていた。
 ああ、やってしまった……。一体どうするつもりだ?

 だが、ロザンナ・アルバーニだって? あんな気位ばかり高い能なしのわがまま娘と結婚させられたら、俺は一生を墓場で過ごすも同然になってしまうぞ!
 それだけは何としても避けなければ。しかし、時間はあとたったの一週間だ。

 ルシア……。
つい数時間前、出会ったばかりの彼女の顔が、脳裏に鮮明に浮かんだ。フルネームも知らないくせに、どうして咄嗟に彼女のことを話してしまったのだろう。
 しかし実際、彼女なら! きっと俺をこの窮地から救ってくれる!

 ああ、サンタ・マリア、サンタ・ルチア、サン・マルコ、誰でもいい、どうか……。
 普段、教会など滅多に行かない彼も、思わず聖人達の御加護を祈りたくなっていた。



 その夜、ルシアもまた、ベッドで何度も寝返りを打っていた。

 考えるまいと思っても、なぜか目を閉じると昼間の無礼な客の顔が浮かんでくる。腹が立つほどハンサムで精かんな顔立ち……。
 どうしていつまでも、あんな人のことなんか考えているの?
 きっともう二度と会う事なんか無いわ。忘れてしまうことよ。

 ロンドンのモデルクラブは今頃、春夏コレクションの準備で大変でしょうね。
 クラブのオーナーから持ち掛けられた嫌な接待の話をきっぱり断ったら、うとんじられてしまい、ささいな理由でクラブを解雇されてしまった。
 でもそんなこと、誰にも言えないもの……。
 馬鹿なことをしたのかしら? 先輩達が言うように、もっと大人になるべきだった?
 いいえ、今もそうは思っていない……。

 ロンドンに居たくなくて、逃げるようにママの故郷であるこのヴェネチアに来てしまった。運河のさざ波とゴンドラ漕ぎ(ゴンドリエーレ)の唄は、痛んだハートに優しく響くけれど……。

 これから一体どうすればいいのだろう。ルシアの混乱した心に、答えはまだ見つかりそうもなかった。


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15/9/29 更新
更新あとがきは、ダイアリーにて。