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 じれったくなるほどゆっくりと時間が過ぎ、やっと翌日の昼過ぎになった。
 無味乾燥な調査報告からようやく解放されて、再びラファエロが昨日のピッツェリアを訪れたのは、午後になってからのことだった。
 だが行ってみると、ルシアの姿が見えない。慌てて店から出てきたアンジェラを捕まえて尋ねると、小さな目をきらめかせて、満面の笑みで答える。

「あの子なら、午後からは休ませて欲しいというのでね。サンマルコ広場までショツピングに行くと言って、今しがた出かけたばかりですよ」
「グラッツィエ!」
 叫ぶなり、彼もそちらに向けて駆け出していた。



中世から続く水の都の玄関口、サンマルコ広場は、使徒マルコの聖遺物をいただくサンマルコ寺院に始まり、ドゥカーレ宮殿やサンジョルジョ・マジョーレ教会などの壮麗な建築物とともに、ヴェネチアの中心地としてにぎわっている。
 大勢の観光客がたむろする広場沿いの硝子工芸店の前に佇み、ショーウィンドウに飾られた凝ったグラスをぼんやり見ていた。ふと、ルシアの耳に自分の名を呼ぶ声が聞こえ、はっと我に返る。声のした方を見ると、手を上げて歩み寄ってくる昨日の調子のよい客の姿があった。

「あなたは……」
 別れ際の彼の行為がよみがえり、ルシアの中で警戒警報が発令する。思わず背筋を伸ばして身構えた。
「チャオ、ルチア。君を探していたんだ。アンジェラ小母さんに、ここだと聞いてね」
 だが、見るからにほっとしたように屈託なく笑いかけてくる彼に、警戒心も少し薄らぐ。

 変な人……。でも別に悪い人には見えないけれど……。
 だが、あえてそっけなく応じた。

「それはわざわざどうも。わたしに何か御用ですか?」
「ふむ、そんな態度はいただけないね」
 軽く切り返しながら、観察眼に長けた彼の目は、今日のルシアのポニーテールにした髪、澄んだトパーズのような青い目を引き立てる薄いメイクから、細い首筋に巻かれた薄手のスカーフ、着ているカットソー、すらりと伸びる足にフイットしたジーンズ、そして、彼女がじっと見ていたショーウィンドウの中身まで、咄嗟に見て取っていた。そしてひそかに感嘆する。
 やっぱり彼女は素晴らしいぞ。こんなに地味なスタイルなのに、こんなにも人目を引けるなんて!

「ところで、今日は観光かい?」
「別に観光ってほどでもないですけど、ちょっと気分転換したくなって」
「とりあえず近場に来てみた、と。サンマルコ寺院もまだ見てなかったのかな?」
「いえ、もちろん見たことくらいあります」
「まぁちょうどいい、僕が案内するよ。今から一緒にゴンドラに乗って回らないか?」
 言いながら今にも手を取って歩きだそうとする彼を、ルシアは驚いて止めた。
「ええっ? ちょっと待ってください! わたし、あなたの名前も知らないのよ? どうして一緒に行かなきゃいけないんです?」
「おや、そういえばそうだったね」

 気がつけば、彼女は焦ったように体を突っ張らせて手首を振りほどこうとしている。手を離し、こほんと咳払いすると、彼はおもむろに帽子を脱いで再び彼女の手を取り、口付けた。驚くほど優雅で貴族的な動作に、ルシアもぽかんとしてしまう。

「失礼しました。僕はラファエロ・ドメニコ・サンマルティーニ。ミラノから環境保護団体の仕事で来ているんですよ。以後よろしく、シニョリーナ・ルシア・エリザベス・ラティマー」
「わたしのフルネームだわ! どうして知っているの?」
「もちろん、君のアンジェラ伯母さんに聞いたのさ。お父さんがガラス工芸職人だったって? 昔ヴェネチアに来ていて、君のお母さんに出会ったと言ってたよ」
「まぁ、あきれた! そんなことまでお話ししたの? 別に関係ないでしょう、あなたには」
 驚きあきれるルシアを物憂げにじっと見返し、さらっと応える。
「君のことを、もっと知りたかったんだ。もちろん、君が教えてくれれば一番嬉しいけどね」
 急に改まった態度を見ても、まだ対応を決めかねているらしいルシアに軽くウィンクして、彼はポケットから名刺を差し出した。ルシアも名前くらいは聞いたことのある、南欧の有名な環境保護団体の役員となっている。
「ふむ、ガードが固いんだな。その心がけはなかなか立派だね。ご両親も安心だろう」
 まだ動かないルシアにラファエロは微笑むと、親指で広場の建物の陰に出ているオープンカフェのテーブルを指した。
「日差しが暑くないかい? よければ、そこで少しドリンクでも付き合ってくれると嬉しいけどね?」
「ええ、それくらいなら構わないわ」

 少しためらったが、心持ち笑い返して一緒に歩み寄ると、彼が引いてくれた椅子に腰掛けた。まるでお姫様になったような不思議な気分になってくる。
 カフェ・コン・ジェラートとアイスカフェラテ、それにいくつかのケーキを注文し、陽気な彼に釣られてひとしきり話に花が咲いた。


「へぇ、君はまだ22歳なのか! カレッジの学生かい? もう少し上かと思ったよ」
「あなたこそ、もう少しお若いかと思ってたわ、もう30だなんて、結構おじ様だったのね!」
「そりゃひどい、頼りになる紳士と言って欲しいな」

 彼は話を聞くのがとても上手だった。気がつくと、自分がロンドンでカレッジの2年のときにスカウトされ、学費用のアルバイトにファッションモデルになったこと、思いがけないクライアントの指名で表紙に載るチャンスまでもらったのに、そこから続くキャリアアップの階段に乗りそこなったことなどを話していた。
 さらに意外なほど、彼はファッション業界の用語にも詳しかった。驚くルシアに、ウインクしてこう答える。

「実は僕の母が、ミラノでモードクラブの後援をしてるんだ。話だけは色々入ってくるんでね。君、ミラノには行ってみた?」
「いいえ、まだ。とても憧れているけど……」
 ミラノはパリ、ロンドンと並ぶヨーロッパのファッションモード発信地だ。ミラノと聞いて目を輝かせたが、それから節目がちになり、ふーっとため息をついた。そんな彼女の表情の変化を見ながら、彼がさらに問いかける。
「君は今でも、ファション業界に戻りたいと思っているの?」
 その言葉に反射的に首を横に振ったが、また目を伏せてしまう。
「自分でもよくわからないの。とりあえずカレッジに戻って、卒業まで頑張ろうかとも思っているし」
「ふーむ。モデルじゃなければ何になりたいんだい?」
「専攻は一応、アート・デザイン科よ」
「なるほど! お父さんのように自分の作品を作りたいのかな?」

 納得したとばかりに問いかけられ、ルシアははっとして目を上げた。そんなこと、深く考えてもいなかったけれど……。

 彼がさらに何か言おうとしたとき、携帯電話のコールが邪魔をした。


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15/10/02 更新