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 差し出された手に自分の手を預けたとき、不思議な甘い喜びがルシアの中を駆け抜けた。
 本当に、この気持はいったい何だろう? 追及するのが怖い気もする……。


 アンジェラに笑顔で見送られ、ラファエロに手を取られて二人乗りのゴンドラに乗りこんだ。黒いゴンドラは見た目よりもスペースがあり、刺繍付きのゴージャスなクッションで飾られた赤い二人掛けの椅子もとても座り心地がいい。
 並んで座ると、何故かどきどきしてきた。彼に悟られまいとして、ゴンドラ漕ぎの一さおで静かな運河を滑るように動き出した舟と、前方に近づく古い建物に集中しようとする。
 だがそっと肩を抱き寄せられ、耳元で優しい声が囁いた。

「ルチア。本当は僕を待っていてくれたんだろう?」
「まぁ、ね」
 ようやく素直に頷くと、彼はにこっと笑って「嬉しいよ」と呟いている。
「でも、そんなに忙しかったのなら、無理に今日でなくてもよかったのに……」
 本当は来てくれて嬉しかったくせに、と心の奥で声がしたが、無視することにした。目の前にセットされたローテーブルの下から、彼が籠に入ったドリンクの瓶と硝子細工のゴブレットを取り出している。
 そのゴブレットを見るなり歓声を上げた。
「まぁ! ヴェネチアングラスね、きれい!」
「君へのプレゼントだ。昨日、サンマルコ広場のショップで見ていただろう?」
「見てたの?」
「君がやけに熱心に眺めていたからね。好きなのかい?」
「……わたしの父が昔作っていたのよ、このヴェネチアで。当時の作品がいくつか残ってるわ。今もわたしの部屋に飾ってあるの」
「君のお父さんとお母さんが出会った頃だね?」
「そうよ。母は陽気でよく歌を歌って、一緒に居て楽しい人だったわ。父はそんな母をとても愛していたの。生活は大抵厳しかったけど、幸せだったわ」
「君がカレッジでグラスアートを専攻してるのも、お父さんの影響かな?」
「ええ、そうだと思う。わたしの作品なんて、まだまだだけど、いつかこんな素敵なグラスを作ってみたい……」

 ゴブレットを見ながらしみじみと話すルシアを、ラファエロはまぶしそうに見つめていた。折りしも差し込み始めた夕日が、美しい装飾のヴェネチアン・グラスをオレンジ色に染め、うっとりと手に取って見つめているルシアの横顔は、まるで清らかな聖母のようだ。

 彼は黙って彼女からそれを取り上げると、冷えたドリンクの栓を抜いて注ぎ、また持たせてくれたので、思わず笑顔になった。
「これで飲めるなんて、最高のぜいたくじゃない?」
「芸術品として愛でるだけじゃなく、使ってこそのゴブレットだと思うからね」
「まるで、何かのお祝いみたい」
「じゃ、僕のここでの仕事が無事に終わったことと、僕らの出会いに乾杯するのはどう?」
 とたんに、ずきっとルシアの心臓が激しく痛んだ。変ね、どうしたのかしら。
「それは……よかったわね。じゃ、もう帰るのね?」
「せいせいする、なんて言わないでくれよ?」
「そっ、それに近いかも……」
 軽く応えようと思うのに、なぜか声が震え出したような気がする。きっと運河を渡る風のせいよ。
「そういえば、あなたは普段どこで暮らしているの? まだ聞いていなかったわ」
「家はミラノだ。といっても、あちこち、時にはパリやブリュッセルにも出かけているからね」
「環境団体のお仕事で?」
「いや、それはボランティアだ。メインは不動産業の方だから」
「そう……。忙しいのね」
「ルチア……」
 もっと何か言いたそうに、じっと自分を見つめている。だがルシアは、そのまといつくような視線から目をそらすと、手にしたグラスを持ち上げ、強いて明るく振舞った。
「お仕事、お疲れ様でした。それじゃ、あなたの任務完了を祝して乾杯!」
 二人のグラスが触れ合い、スパーリングしながら冷えた飲み物が喉に染みとおっていく。その効果か、少し気分が明るくなった。
「……いい風」
 思わず手を伸ばして髪をまとめていたピンをはずすと、長い髪が風になびくのにまかせた。彼がはっとしたように目を見開いたような気がした。
 そのまま、怖いほど真剣な眼で自分を見つめている。どうかしたの?

 運河はゆったりと流れて舟を運んでいく。ゴンドラ漕ぎがかけてくれたスローテンポの音楽に耳を傾けているうちに、どこかで見たような風景に出くわした。

「ここ、何かで見たことがあるような気がするわ」
「ため息橋だよ。君が見たのは、映画の『リトルロマンス』かな?」
「ため息橋?」
「ヴェネチアに来ている割に勉強不足だな。この橋の両側は昔、宮殿と監獄になっていたんだ。それで、罪人としてこの橋を渡る人達が、この橋から見るヴェネチアが最後だと、ため息をついた、という訳さ」
「なるほどね……」
「あとここには、もうひとつ伝説があるんだ……。知ってるかい?」
「いいえ、知らないけど……。本当に勉強不足よね」
 苦笑してはぐらかそうとした彼女を、思いがけず真剣な目が捉える。
「日が沈む時、この橋の下でキスしたカップルは、永遠の愛を約束されるってさ。今、ちょうどいい。試してみないか?」
「えっ……?」
 とまどっているうちに、強い腕に引き寄せられていた。そのまま橋の下まで来たとき、彼が顔を寄せてきて唇を奪われる。昨日よりもっと深く、静かな情熱がこもっているような気がした。やさしくて、それでいて熱い欲望も感じる。我知らず酔いしれ、溺れてしまうようなキスだった。男性経験がないルシアでさえ、気がつくと、彼を求めて彼の首筋に腕を回し不器用にキスを返し始めていた。
「ラファエロ……」
「そう、ミア・カーラ。僕の名を呼んで……、もっと」
 ルシアの不器用な反応に一層刺激されたように、彼が囁きながら、ルシアの唇をもっと深く求めた。それから熱い軌跡を残して繊細な首筋へと動いていく。
 指先でブラウスの上から柔らかな胸元に触れられ、心臓が狂ったように打ちつけている。
「や、やめて!」
 思わずあえぐように息をつくと、ルシアは懸命に彼を押しやろうとした。ラファエロも我に帰ったようにぶるっと身震いして身を起こす。
「ルチア……」
 呟いた彼の声はかすれていた。
「わたし達、ちょっと、伝説に悪酔いしたみたい」

 こういうとき、どう振舞えば良いのかわからなかった。やっとエスプリを思い出してこう返すと、ルシアは彼から目をそらしたまま、黙って暮れていく空と運河の風景を見つめていた。


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15/10/10 更新