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 ゴンドラが船着場に着いたとき、二人はまだぎこちないまま、舟から降り立った。

 いけない、もうこれでお別れなのに。明るく笑わなくっちゃ。高校生でもないのに、キスくらいでうろたえるなんて馬鹿みたいよ。しっかりしなさい!
 ルシアは背筋を伸ばすと、笑顔で彼に握手の手を差し出した。

「ありがとう、今日はとても楽しかったわ」
 そのまま手を引っ込めようとするが、彼はその手を両手で包み込んだまま、離さない。
「おっと、今どこにいるか、わかってるのかい?」
「えっ? ここって、アンジェラ伯母さんのお店の近くじゃないの?」
 困惑顔で見回すと、左にリアルト橋が見えた。彼がにやっと笑う。
「店までは少し距離があるな。ヴェネチアは迷路みたいになってるから、暗いと余計に歩くのが大変かもしれないよ?」
「意地悪ね」
 むっとしてみせるが、彼はいたずらっぽく微笑み、彼女を再び抱き寄せるように腕を回した。
「まだ帰さないよ。今から一緒に食事に行くんだ。まだ一番大事な話が残ってる」
「一番大事な話……? 何かしら?」
「席を予約してあるんだ、行こう」

 まったくイタリア人は、どうしてこうも強引なんだろう。その上傲慢でもある。女は男の言うことには必ず従うとでも思っているようだ。
 思わず文句を呟きながらも、彼に背中を押されるように歩き出した。なぜか心がときめくのを、どうすることもできない。


 連れて行かれたのは、リアルト橋からそう離れていない静かなオステリアだった。
 奥の席に案内され、彼がメニューを広げてイタリア語でいくつか注文している。そこは、シェフ特製の魚料理を食べさせてくれることで有名な店らしい。ワインもおいしい。
 雄弁だった彼が、さっきから妙に無口になっている。何か考え込んでいるようだ。話があるって引っ張ってきたくせに、どうしたのかしら?

「クルード(生)ね。懐かしい。ママが新鮮な魚が手に入ったとき作ってくれたわ。ごくたまにだったけど……。とてもおいしいわね」
「もっと食べたければ、いくらでも注文して構わないよ」
「もう十分。それでお話って何かしら?」
 彼が我に返ったように、ルシアをじっと見つめる。少し間があり、請うように訴える声が少しかすれた。
「……ルチア、来週、僕と一緒にミラノに来てくれないか? その、僕のパートナーとして」
「えっ?」
 驚いてうっかりフォークを落としてしまった。かちゃんと音を立てて床に滑り落ちる。ウェイターがすかさず新しいフォークを置いてくれるまで、二人の間にぎこちない沈黙が漂った。ラファエロがこほんと咳払いして問い返す。
「そんなに驚くような提案かな? 君だって、ミラノに行ってみたいと言ってたじゃないか」
「それはそうだけど、あなたのパートナーですって? どういうパートナーなの?」
「親父が開くパーティのパートナーさ。美しいドレスを着て、僕と並んで歩いて、時たま踊ってくれればいいだけだよ」
 思わずため息が漏れた。別世界の話みたい。
「そんなフォーマルなドレス、持ってないもの」
「僕が買ってあげるよ、ミラノで」
「結構よ。またジョークなんでしょ? わたしをからかってるのね」
 彼女は納得したとばかりに、くすくす笑って頭を振っている。

 ラファエロは黙って彼女と自分のグラスにワインを注ぎ足すと、乾杯するように彼女に軽く掲げて見せてから飲み干した。心臓が我知らず激しい音を立てている。
 まったく、女性一人を誘うのにこんなに緊張しているなんて、どういうことだ?

「僕は本気で言ってるよ。君に、僕のパートナーになってほしい」
 本気だとわかったらしい。ルシアもようやく真顔になった。真意を測ろうとするように小首をかしげて、彼をじっと見つめ返す。
「どんなパーティなの?」
「僕の一族がヨーロッパ中から集まる。みんなペアで来るからね。母が、一人だけ相手がいない可哀そうな息子のために、相手を見つけてくれたそうなんだが、その相手というのが、どう見ても僕とは合わない」
「だったら、お母様にそう言えばいいだけじゃない? 無理にわたしなんか誘わなくても」
「無理に、じゃない! 僕は君と一緒に行きたいんだ! まだわかってもらえないのかい?」
「ラファエロ……」
 思いがけず激しくなった彼の口調と真剣な眼差しに、ルシアがひるんだように見えた。目線が壁にかかった絵をさまよい、それから伏目がちになる。
「……いや、すまなかった。つい」
「なんだか突然すぎる話で……、どう考えたら良いか、よくわからないわ」
「何も考える必要なんかないさ。君なら僕のパートナーとして、立派に切り抜けてくれるよ。誰にでも頼めることじゃないんだ。それに君だってミラノに行ってみたいと言ってたじゃないか? そうだ、モデルなら、春夏コレクションにも興味があるんじゃないか?」
「まぁ、ミラノ・コレクションね? 忘れていたけど、そういえば……」

 例年、春夏コレクションは9月中だったと思い出す。それはイタリアのそうそうたるデザイナー達が一堂に会する一大イベントの舞台だ。当然、クラブでもモデル達がオファーを待ち望むが、狭き門だった。

「やっと、反応してくれたね」
 初めて目を輝かせた彼女に複雑な心境になりながら、ラファエロがため息をついて皮肉に畳み掛けた。
「母が本格的に準備に入っていたから、近いうちだと思うよ。パーティのあとで、ゆっくり見ていけばいい」
「……そうね、いいかもしれないわ」
「遅くなった。もう出よう」

 くそ、女に条件付きで懇願するなんて、今までしたことがない。しかもまだ、色よい返事をもらえていないときている。
 プライドを傷つけられて不機嫌になったラファエロは、素っ気無く席を立った。これ以上どうすればいいのかわからない。無言で支払いを済ませ、ルシアを伴い店を出た。
 晴れた夜空の大きな月が、運河の水面に映っている。

「わたし、行きたいわ」
 ふいに、少し後ろを歩いていたルシアが声を上げたので、振り返ってまじまじと見つめてしまった。



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15/10/13 更新
ちょっとした後書きを、ダイアリーにて。