《子爵の恋人》 番外 3


後 編



 ロンドン下町の不衛生な生活環境。その暮らしは、上流の華やかさからは到底考えられないものだった。
 栄養失調はもとより、結核、チフス、コレラ、そしてもっと恐ろしい悪魔の病気さえ、多発していると聞く。それで命を失う者も数知れないと……。

 突然さっと顔色を変えた妻の顔を、ジェイムズはどこか思いつめた眼で見ていた。
 ふいに彼の怒りの波動が和らぎ、何か別のものがそれにとって変わる。
 無言で近付いてくる夫を避けるように、ローズは片手を前に突き出し、首を振って後ずさった。だが彼はそんな彼女を両腕で捕らえると、胸にしっかりと抱きすくめてしまった。

「あなた、だめ! だめです! それなら危ないわ。わたしもあの子に触れているんです……、離して、お願い……」

 衝撃を受けた顔で、懸命に抱擁から逃れようとする妻の顔を片手で持ちあげると、彼は荒っぽく唇を重ね合わせてきた。
 そんな! ローズは彼の腕の中でいっそうもがいた。必死に抵抗しようとする。だが、抵抗するほどいっそう彼の腕に力が加わり、きつく抱き締められてしまうばかりだった。
 動かないよう片手で彼女の頭を押さえると、容赦なく唇を開かせ奥までキスを深めてくる。意識が飲み込まれそうになりながら、同時に襲いかかる恐怖の冷たい手がローズの心臓を鷲づかみにした。

 今こんな真似をするのは狂気の沙汰だ。自分もあの少女に触れてしまった。もし万が一のときは……。その可能性は十分考えられる。
 ああ、もしジェイムズに何かあったら、いったいどうすればいいの?


 ローズがなおも必死になって彼の肩に手をかけ、押したり叩いたり、無駄な抵抗を繰り返しているうち、ようやく彼が唇を離し顔を上げた。
 回された腕の力が緩んだ途端、ローズは夢中で彼から身を引き剥がした。一歩下がった彼女の大きく見開かれた茶色の瞳から、涙が零れ落ちる。

 狼狽しているローズとは逆に、子爵の方はさっきまでと打って変わって落ち着きを取り戻していた。平生に戻ったように、ダークブルーの瞳には、からかうような微笑さえ浮かんでいる。
 彼は指先でそっとローズの頬をぬぐうと、少し乱れた金髪を撫でつけ、穏やかに言った。

「君の着替えにメイドはやれないよ。疲れただろう? しばらく部屋で休んでいるといい」

 そしてもう一度彼女の濡れた頬にキスを落とすと、いつもと変わらぬ足取りで階段を上がっていった。


◇◆◇


 伝染病……。

 部屋に戻ったローズは、その嫌な響きに身震いし、両腕を身体に巻きつけた。青ざめたままベッドにふらふらと座り込む。
 夫があの少女を見て、倒れていた状況を聞いたとき、真っ先に心配したのはおそらくそのことに違いない。
 遅ればせながらその危険性に思い当たって愕然とする。

 いつもはすぐ着替えを手伝いに入ってくるドロシーも、子爵が止めたに違いない。
 もし万が一のときは……。自分は仕方がないとしても、お腹の子供に、そして彼自身にもしものことがあったら、本当にどうすればいいのだろう!
 唇に手を当ててみる。さっきの切羽詰ったキスを思い出し、また胸を締め付けられるような不安に襲われた。
 どうして、彼はあんなことをしたの?

 パニックに陥りかかりながら、彼女は懸命に祈っていた。今できることはそれしかない。

 ふと、改めてあの少女の倒れていた時の様子が思い浮かんだ。どこにも病気らしい徴候は見えなかった。熱もなかった。だから、そんなことまで、とっさに考えが及ばなかったのだ。
 そう、倒れていたのは何か他の理由からかもしれない。
 神様、どうかどうかそうでありますように……!


◇◆◇


 どれくらいそうしていたのか、わからなかった。
 ドアにノックの音が聞こえ、ローズははっと顔を上げると、飛ぶように駆け寄って扉を開いた。
 そこには、彼女の侍女であり、心許せる友人でもあるドロシーが、目に暖かい笑みをにじませて、銀の覆いをした食事の盆を手に立っていた。

「ご安心なさってください。ドクターの診察の結果、旦那様が大丈夫だとおっしゃって。奥様に早くお食事をお持ちするようにと。まぁ、お部屋が真っ暗! それにまずお着替えが先ですわね!」

 時間がようやく再び動き出した。盆をテーブルに置き、白壁の優美なフォルムのランプを全て点すなり、ドロシーはきびきびと部屋中を動き回り始めた。
 彼女が衣装部屋からいつもの部屋着を持ってくるのを目で追いながら、緊張が一気に解けてきて、軽いめまいすら覚えるほどだ。ローズは、もう一度力なくベッドに腰を落としてしまった。
 着替えを手伝いながら、ドロシーが事の顛末を語ってくれた。

「あの子、診察が始まってすぐ意識を取り戻したんです。ドクターを怖がってギャラリーのほうまで聞こえるくらい大声で騒いでいましたわ。結局、あれこれ診察や検査をなさったドクターが、身体に異常はないようだとおっしゃって。ただ胃が空っぽでかなり衰弱しているから、とにかく温かいスープと休息をとる必要があるとのことで……。みんなの顔から、一気に緊張が解けたみたいでしたよ。もうジャックさんの喜びようったら。あの人、二度と賭け事はしないと誓いを立てたんですって。いつまで続くか、みんなが賭けてるんですよ」
 化粧鏡の前で女主人の髪を解いてもう一度ゆるく結い上げながら、ドロシーはおかしそうにくすくす笑った。
「もう当分、馬車を出してくれないかもしれないわね」
 ローズも苦笑しながら、安堵の吐息をつく。

 ようやく笑う余裕が戻ってきた。やがて、少し心配そうに、ローズは鏡の中の侍女に問いかけた。
「旦那様は……どうなさって?」
「お食事を簡単に召し上がった後、書斎に入られました。もちろん、心底ほっとしておられましたとも!」
 ドロシーは目に少し非難の色を込めて、さらに強く念を押すように伝える。
「今日の午後、奥様がお出かけになった後は、お仕事もろくに手につかないご様子でしたからね。あまりご心配をおかけになっては、旦那様がお気の毒でございますよ。第一奥様は本当にお人が良すぎますわ! 道端から浮浪児のような娘を拾っておいでになるなんて、メイド達の間でもそんなご主人様の話は聞いたことがありません!」
 普段は彼女に理解的なドロシーからさえこう忠告されて、ローズもため息混じりに「そうね……」と頷いた。
 今日ばかりは返す言葉もない。そのときドロシーがまたにっこりと微笑んだ。
「でもそういうところが、ロンドン一素敵な奥様なんですけどね」

 そして、てきぱきと食事のテーブルを整え始めた。


◇◆◇


「あ……、さっきのマリア様。いえ、奥方様!」
 使用人用の空き部屋にベッドを移され横になっていた少女は、入ってきたローズを見るなり声を上げ、慌てて起き上がろうとした。
 彼女は手振りでそれをとめ、枕を直してやってからベッド脇の小さな椅子に腰を下ろした。
「具合はどうかしら? どうしてあんなところに倒れていたの?」
「あ、あたい、いえあたしは……」
 娘が話し始めてすぐ、ローズはその言葉遣いにヨークシャー地方独特の訛りがかかっていることに気付いた。
 ヨークシャーの貧しい田舎村から職を求めてロンドンに出てきたものの、行く当てもない身で、少ない持ち金も使い果たし、この二日間何も口にしていなかった、と娘は懸命に説明した。

「チャリング・クロスの駅で夜をしのいでたんですだ。だけんどあのものすごい霧の中で、駅の方向がわからなくなっちまって……そんでも歩いてたですが、急に目の前がくらっときて……」
それきり空腹と疲労のあまり意識を失なってしまったらしい。今さらながら、はらはらする話だ。

「あんな往来で……、馬車に踏みつけられなくて、本当によかったわ」
「あの辺には、立派なお店とかホテルなんかがいっぱいあったから、はぁ、あたいみたいな田舎モンでも、洗濯女くらいなら雇ってくれねぇがな、と思って。だけんど……」
 それは大変だったでしょうね、とローズは同情的にうなずいた。
「ロンドンで紹介状もない人を簡単に雇うところは、そうはないでしょうからね。とにかくその話はまた改めてゆっくりしましょう。今は心配しないで、とにかくお休みなさいな。食事は済んだのね?」
 はい、と大きくうなずいてから、娘はすがるような目でローズを見上げた。
「お優しい奥方様! あたいをこちらで雇ってもらえないですだか」

 一生懸命身を乗り出して自分を見つめる少女の黒いまじめそうな目と、やや上向いた鼻に浮かんだそばかすを見ながら、ローズは思わず微笑んだ。職探しの苦労は彼女もよく知っている。

「でもね、まずは仕事ができるように体力をつけることよ。それからその言葉遣いをどうにかしないといけないでしょうね。あなたいくつかしら? 名前はなんと言うの?」
「アリスって言います、奥方様。アリス・マージ。十六歳になったばかりですだ!」
「そう、アリス。きっと大丈夫よ。これから多分、人手はもっと必要になるでしょうから」
 だから今はお休みなさいな。そう力づけて、安心したように再び横たわった少女を残し、ローズは小部屋を出た。


◇◆◇


 かなり夜も更けたはずなのに、ジェイムズはまだ寝室にやってこなかった。先に寝支度をしてベッドに入ったものの、とても寝付かれない。

 幾度も寝返りを打ちながら廊下の物音に耳を澄ましていたが、ついにベッドから起き上がった。白い綿のナイトガウン一枚だが、もう使用人達もそれぞれ部屋に引き取っている時間だから、見られる気遣いはないだろう。
 そう考えて、そっと暗い廊下に出ていった。夫の書斎まで来ると、扉の隙間から淡いランプの光が漏れている。

 彼がまだ自分に腹を立てていても構わなかった。あの騒ぎの後、まだ顔を合わせてもいない。とにかく顔を見て、午後のことを謝ってから眠りたかった。
 それに……、アリスのことも頼んでみなければ……。
 そんな思いで衝動的に来たものの、いざとなると少しためらってしまう。小さくノックしたが返事がないので、思い切って扉を開いてみた。


 ジェイムズは机の横のカウチに座り、頭を背もたれにもたせかけ、眠るように目を閉じていた。
 まだ平服のまま、カウチの前に置いた低い足台の上に楽な姿勢に足を伸ばし、膝の上に読みさしの書き物の束を載せている。

 そっと中に入っていった。物音を立てたつもりはなかったが、気配に気付いたように彼は身動きし、ゆっくりと上体を起こした。寝巻き姿で立つ妻を驚いたように眺めている。

 ローズはそっと彼に近付くと、手を伸ばしランプの光に照らされた夫の貴族的な顔にそっと触れた。心に夫への愛と優しさが泉のようにあふれてくるのを感じた。
 表情に疲れが見えてさえ、彼はとても力に満ちて強い。

 静かな夜の帳が二人を繭のように包んでいた。無言でしばらく見つめ合っていたが、やがて彼の手が彼女の手を捉え、そっと唇に押し当てた。
 そのまま彼女を引き寄せ隣に座らせ、抱き寄せた。目を閉じて夫の胸に顔を埋める。
 ふいにこの書斎で初めて出会った頃のことが、とりとめもなく思い出され、また涙が出そうになった。

 紹介状を手に、この屋敷を訪れた日、あの扉から入ってきた自分を驚いたように見ていた彼の瞳も、今と同じ深い深いダークブルーだった。
 時々本を借してくれたときの、少しからかうような「ミス・レスター」という呼び方。気持を打ち明けてくれた後、おそらく彼自身一番迷っていただろう時期にも、今のように人目を忍んでこっそりここに来たものだっけ……。

「いつの間にか随分遅い時間になっていたんだな。もう休もう。呼びに来てくれたのかい? すまなかったね」
 ジェイムズの静かな声が沈黙を破った。ローズはようやくここに来た理由を思い出し、夫の顔を見上げた。
「わたし、あなたに昼間のことを謝ろうと思って……」

 言いかけたローズの言葉を遮るように、彼は頭を下げて開きかけた花びらのような唇をそっと覆った。やがて顔を上げると、彼女の少し大きくなった腹部に優しく手を滑らせながら、諭すように言った。
「べつに謝ることはないさ。君は悪いことをしたわけじゃない。もちろん最初聞いたときは馬鹿なことを、とひどく腹が立った。だがむしろ素晴らしいことだと思うよ。そういうとき、とっさに『よきサマリア人』たることができる人間は、そう多くはないだろうからね。だが、もしもの事もある。いろいろと考えた上で注意深く行動してほしいな。特に今は君一人の身体じゃないんだからね」

 仄かな月明かりの射す廊下に出ると、彼は両腕にローズを抱き上げた。驚く彼女にいたずらっぽく微笑して、彼はそのまま寝室まで歩いていった。



「あのアリスという少女、とても真面目そうないい子だと思いますわ」
 大きな天蓋付きのベッドで優しく愛し合った後、裸身を寄せながらぽつりと呟いた妻を、子爵は少し皮肉な表情で眺めた。ふーっと、ひとつため息をつく。
「君のことだから、そう言い出すだろうと思っていたよ」
「いけませんか? やはり紹介状が必要?」
「いや、そういう意味じゃない……」
 彼は仕方なさそうに微笑んだ。
「だがね。今はそんなことよりもっと他に言うことはないのかい? 今日の午後中、君に振り回されっぱなしだった、この哀れな夫に」
 揶揄するように呟くと、ジェイムズは両腕に彼女を再び包み込んだ。甘えるように目を閉じてその手に全てを委ねる。夫の胸の力強い鼓動を聞きながら、ローズは彼の指と唇にかき立てられる歓喜の波にひたすら溺れていった。

 ふと彼の身体に震えが走った。午後の悪夢を思い出し、ローズは目を開けてようやく言った。
「……今日はごめんなさい。あなた、怒っていらしたでしょうね?」
 それに応えるように、彼は深く息を吐き出すと、彼女をいっそうきつく抱き締めた。やがて容赦なく押し寄せる高波が二人をすくい上げ、はるかな高みにまでさらっていく。
 荒々しいほどの快感の渦がようやく引いた後も、彼はローズを抱き締めたまま長い間離さなかった。

「ドロシーが来てくれるまでの間、もしあなたに万が一のことがあったら、と思うと、居ても立ってもいられませんでした。本当にあんなに怖い思いをしたことはないわ」
 つくづく呟いた妻の言葉に、ジェイムズはまた小さく笑った。
「それでも、わたしが感じた恐れとは、比べ物にもならないだろうな。ほら、さんざん脅かした罰だよ。今夜は覚悟できているね?」


〜 FIN 〜


註 『よきサマリヤ人』……「良い隣人」というような意味。ルカによる福音書 10章 25節〜37節
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patipati

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12/05/12  更新
当時のあとがきはこちら…… → Blog