《子爵の恋人》 番外 4

 
レイクサイド・ガーデン



 カーテンの隙間から、夜明けの穏やかな光が差し込んでいる。

 いつもの二人の寝室とは違う部屋……。目を覚ましたローズは、一瞬自分がどこにいるのかわからない、というように辺りを見まわした。
 傍らに眠る夫の身体の温もりに気付くと、ようやくほっとする。昨日の記憶が徐々に蘇ってきた。

 喧騒のロンドンを離れ、しばらく家族水入らずで過ごすために、子爵夫妻とマーガレット、そしてまだ一歳になったばかりの幼いダニエル坊やと乳母のサリーも一緒に、賑やかな馬車の旅をして、昨日からこのレイクサイド・ガーデンの別荘にやってきたのだ。

 ローズは安心したように、小さなため息をつくと、夫を起こさないように注意深く起き上がった。薄いシルクのナイトガウンをはおると、窓辺に立って外を眺めた。
 朝のしじまに、青々とした緑の木立に囲まれた小さな湖が、暁のばら色の空を映し出している。そしてその湖畔に建つ、白亜の瀟洒なヴィラ。本当にここは、なんと美しい場所なのだろう。


 ローズは今、妻として母として、空恐ろしくなるほどの幸福に包まれながら日々を過ごしていた。隣の部屋では、黒髪にダークブルーの瞳を持つ小さな息子のダニエルが、あの雲のようなばら色の頬をして、安らかに寝息を立てている。
 心から愛し尊敬する夫と、彼にそっくりの愛らしい我が子、慕ってくれる義妹と、サーフォーク家の執事や使用人達……。
 このかけがえのない人達との満ち足りた日々は、それだけでも身に余るほどの喜びなのに、その上さらに夫が見せる気遣いや、与えられる様々な贅沢品を前にすると、どうしていいかわからなくなるほどだ。
 子爵はそんなローズを時にからかいながら、いつも優しく見守ってくれていた。

 結婚してすぐに全てがうまくいったわけではない。緊張しながらも懸命に努力を重ねているにもかかわらず、レディ・サーフォークとして前代未聞だ、と陰口を叩かれ、部屋で一人泣いたこともあった。
 だが、そのたびに抱き締めてくれる夫の力強い腕の中で、勇気づけられ、ようやくここまで来ることができたのだ。

 ローズ自身、どれほど強く彼を愛していても、やはり自分が思う何倍も深く、彼から愛されていると感じる時がある。
 いつも自分に注がれている深い眼差しや、何気ない言葉の中に垣間見える愛に気付く。そうした刹那刹那が、ローズの中に宝物のように蓄えられて、あらゆる困難を乗り越える時の、光とも糧ともなっていた。

 不足も経験のなさも全てを承知の上で、身分の障壁を乗り越えてまで、自分などをレディ・サーフォークとして迎えてくれた最愛の夫の傍らに寄り添い、毎日を共に過ごしていける。
 女として、これ以上の望みなど思い付くことすらできない……。

 刻々と移り変わる明けの空を見ながら、初めてここに来た二年半前のことを思い出す。
 あの頃はまだ、今日のことなどまったく思いも及ばなかった。二人の間にサーフォーク家の嫡子が生まれた今でも、ふとしたはずみに、この幸せが変らず続くとは信じきれなくなることがある。
 これらは全て、目が覚めたら消えてしまう束の間の夢ではないだろうか。
 もしかしたら今、突然目が覚めて、自分はまた……。



 ふいに、背後から温かい腕が回され、ローズの物思いは破られた。
 いつの間にかジェイムズも起きて、彼女の背後に来ていた。縫い取りの施された黒のガウンを着て、ローズよりもはるかに背の高い彼が、物問いたげな眼差しで彼女を眺めている。
 顔を上げていつものように笑顔を向けようとしたが、口元がわずかに強ばったのは自分でも感じられた。彼はその顔をじっと見つめながら、胸に引き寄せた。

「おはよう……。随分早いんだな。どうかしたのかい?」
「ちょっと、目が覚めてしまって……。ごめんなさい、お起こししてしまったのね」
 表面的には何も変りないように見えたが、声の微妙な調子に、何かを感じ取ったように、回されたジェイムズの腕に力がこもった。
 無言のままそっと、首筋に流れる金髪をかき分け、現れた白いうなじに唇を押し当てる。羽のように優しいキスを繰り返しながら、ガウンをずらし、なめらかな左肩まで唇が滑りおりていく。
 ローズは身震いすると、夫の腕の中で身体を回転させた。曙光の中、彼の顔を見たとたん鋭いダークブルーの瞳に射すくめられてしまう。
 まるで輝くサファイヤのよう……。思わずため息をついて目を閉じた。これ以上近づけないほどそばにいるのに、もっと近づこうとするかのように、身をすり寄せる。

「いったいどうしたんだ? 話してごらん」

 ジェイムズが抱き寄せながら優しく問いかける。愚かな不安を彼に見透かされてしまいそうだ。
 また笑われるのが嫌で、ガウンの合わせ目から覗く浅黒い裸の胸に額を寄せた。リズミカルに打っている心臓の音が耳に心地よく響く。彼の背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてみた。

「いいえ、本当に何でもないんです。ちょっと昔の夢を見ただけで……」
「どんな夢?」
「あなたと離れて、一人ぼっちだったときの……」

 ほとんど聞きとれないほどのかすかな声で、ローズはつぶやいた。
 瞬間、抱き寄せる腕にさらに力がこもり、彼は身を屈めるとローズをさっと抱き上げた。そのままベッドに連れ戻し、彼女の上に覆い被さるような姿勢になった。
 強い視線で見おろしながら、二人が身につけていたガウンをたちまち取り去ってしまうと、驚くローズの顔を強引ともいえる手で、自分の方に向けさせた。
 下りてきた唇が彼女の唇を捕らえ、昨夜よりもっと焦らすように時間をかけながら、再び手と唇で美しい身体の隅々まで探索を始める。その愛撫に再び火をつけられて、ローズはたちまち何も考えられなくなり、甘い陶酔の際まで誘なわれていった。

 結婚してから二年も経つのに、彼女の中に未だ根強く残り、何かのはずみに顔をのぞかせるかすかな不安の影があることは、ジェイムズも気付いていた。
 厄介なそれが顔を覗かせるたび、ことごとく拭い去ろうとするように、彼は忍耐強く情熱的な愛の営みにローズを巻き込んでいった。
 たとえ何があってももう二度と離さないし、決して離れてはいけないと、その都度彼は全身で語りかけていた。
 その無言の命令に従うようにローズも応えはじめ、二人だけが辿り着けるあの歓喜の波間へと漂い出していく。

 ついに目くるめく歓びの高波に押し上げられて、ローズはこらえきれず叫び声をあげた。ジェイムズも大きく身を震わせて、華奢な身体を力いっぱい抱き締める。
 次の瞬間二人は一つになったまま、もう幾度も訪れたまばゆい金色の浜辺に、再び打ち上げられていった……。



 長い長い時間が経ったような気がした。
 ローズがようやく目を開いた時、彼はその青藍の瞳に満足そうな微笑をたたえ、腕の中に抱き寄せた妻の顔をじっと眺めていた。

 再び唇をよせ、ジェイムズが囁く。
「愛しているよ」
「愛しているわ……」
 応えるローズの顔に、今度は心からの微笑が浮かんだ。
 白い腕を伸ばして彼の首に巻き付けると、その言葉をもう一度誓い合うように、熱く唇を重ねていた。


- fin -


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12/05/14