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 《子爵の恋人》 番外  1


前 編



 夏至も間近いメイフィールドの森に、ようやく静けさと夕闇の帳が降りようとしていた……。


 サーフォーク子爵家当主の婚礼を祝う宴は、二日間にわたって続いた。
 時まさにロンドン社交シーズンたけなわの6月のこと。
 ローズとジェイムズの結婚式は村の古い教会でひっそりと執り行われたが、地元の郷士達をはじめ、領主館を訪れる客の数は決して少なくはなかった……。



◇◆◇



「疲れただろう?」
 領主館から出て行く最後の馬車を見送ったあと、子爵はいたわりをこめて花嫁を振り返った。ローズがほっとしたように微笑み、小さく首を振る。
「いいえ、そんなこと……。あなたに比べたらわたしなど、何もしていないに等しいですもの。わたしをご覧になったお客様方が、呆れておられなければいいのですが……」
 晴れてレディ・サーフォークとなったものの、まだ自分に自信を持つことなどできなかった。
 それでも、今ここにいるのは気心の知れた人達ばかり。今や最愛の夫となった子爵の優しい眼差しと、領主館に働く人々の暖かい気遣い、そして領民達の素朴な祝福をそれこそ身に余るほど受け、心から満たされている。
 幸福とはきっとこういうものに違いない。それこそ目がくらみそうなほどだ。

 ローズはその日、子爵が花嫁のためにとロンドン一流の仕立て屋に大至急仕立てさせたサテンの白いドレスを身につけていた。
 この片田舎まで昨日ようやく届けられたものだ。襟に流行のシャーリングの入ったデザインで、たっぷりとったスカート生地に、彼女にはまだ馴染みの薄い華やかな金糸銀糸の縫い取り刺繍が施されている。
 それはまるで花嫁衣裳のようで、彼女の清楚な美しさを一層引き立てていた。ドレスと同じ生地のリボンと白い花を編みこんで結った金髪が、暮れゆく黄昏の空を背景に淡く輝いている。


 ジェイムズは目を細めて、続けようとした言葉を飲み込んだ。どんなに美辞麗句を連ねても、今傍らで夕風の中に、はにかむように立っている花嫁には、無粋なだけのように思われた。
 とにかく彼女を眺めていたかった。これまで失った時間の分も共に過ごしていたい。もう急ぐ必要など、どこにもないのだ。そう何度も自分に言い聞かせるが、なかなか実感が伴わない。

 彼女自身少しも気付いていなかったが、この二日間、新しいレディ・サーフォークは訪れた客の目を片端から釘付けにしていた。
 彼女ならここメイフィールドばかりでなく、ロンドンの社交界に出て、並み居る貴婦人達の中に立ったとしても、全くひけをとらないだろう。花婿である自分の幸運を、とりわけ若い男達が心底うらやんでいたことはよく承知している。誇らしさと同時に彼の心中には時折複雑な感情が渦を巻いていた。花嫁に向けられる男達の賞賛の眼や、もっと露骨な欲望を帯びた視線に気付くたび、彼女を自室に閉じ込めて、誰の目にも触れさせたくない、そんな理不尽な衝動に駆られたほどだ。

 もう何も心配することはない。
 彼は再び自らに言い聞かせるように、妻の左手をそっと取り上げ、親指を華奢な手の甲に滑らせた。その薬指には今、サーフォーク家の指輪がしっかりと嵌められている。
 おととい祭壇の前でこの指輪を嵌めながら誓った通り、死が二人を分かつまで、二人は完全に互いのものになったのだ。離れていた一年半、いや、彼女と出会って以来、どんなにこの日を待ち望んできたことか……。



 そんな子爵の胸のうちなど知るよしもなく、ローズは城と森を縁取る幻想的な紺青の空を、感嘆をこめて見守っていた。
 この城に初めて訪れた日に、やはりこの庭から彼と共に眺めた十月の空を思い出す。あの時から何と様々な出来事を経て、再び二人でここに立っているのだろう。
 澄んだ茶色の瞳に深い感動がよぎった。そのとき片手を取られ、深みのある声が聞こえた。

「何を見ているんだい? まだ夢見るには少し早い時間だよ」

 揶揄するような調子に、彼女は我に返って瞬きした。ようやく緊張を解くと、心からの笑顔で夫を仰ぎ見る。今の空の色と同じダークブルーの瞳が一瞬濃い翳りを帯びたような気がした。だが、彼は軽く続けた。

「残念だったな。このドレスが式に間に合えばよかったのに……。いや、もちろんあのグリーンのドレスだって、とてもよく似合っていたがね」
「わたしにとっては衣装など、どちらでも同じことですわ。神様の御前であなたの花嫁になれたんですもの、それだけでもう……」
「まったく仰せのとおり。奥様に心からの敬意と同意を」
「まあ、そんなことをおっしゃって」
 からかうように眉をあげた夫を見上げ、ローズが反論しようとした瞬間、彼の顔が近付いてきて唇をふさがれていた。
 誘うような優しいキスの中にも、内なる情熱が燃え始めているのを感じる。すぐに有無を言わさぬ手が細い腰をぐっと引き寄せ、強引な舌が少し開いた花びらのような唇を割って侵入してきた。

「こ、こんなところでは……」
 次第に熱を帯びてくる口づけ。ためらうように応えていたローズも、今二人が立っている場所が城のたくさんの窓から見渡せる囲いも何もない庭だという事実を思い出すと、慌てて彼を押しのけようとした。
 抱き締める腕の力が僅かに緩んだ隙に、どうにか身を引き離し、とがめるような眼差しを夫に向けた。頬がほてってくる。幾度か息をつき、気遣うように周りを見やった。
 子爵はそんな彼女を見下ろして、おかしそうにくっくと笑い出した。まあ、と言うように少し厳しい顔をしてみせるが、再び抱き寄せられてしまっただけだった。

「やれやれ……、相変わらず慎み深い人だな。使用人達は新婚の主人夫妻が館の庭で何をしていようと、別にとがめだてたりはしないよ。ああ、わかった、わかった。そんな顔をしないで。厄介な伝統と慣習は、結婚する前も後も変わらずあるものだな。では奥様、続きは部屋に入ってからといたしますか」

 また、わたしをからかっているんだわ。僅かに夫を睨んだが、彼は瞳をきらめかせて微笑み返すと、余裕の仕草で片腕を差し出した。遠慮がちに手をかけて寄り添う。二人はゆっくりと歩いていった。


◇◆◇


 城館には年代物だが使い勝手が悪く、隅に放置されたままの17世紀以来の家具や調度品がかなり残っていた。もちろん掃除は隅々まで塵一つなく行き届いている。
 ロンドンから連れてきた小間使い達もそれぞれの部屋に引き取っているらしく、静かな回廊には人の影も見えない。

 幾何学模様の彫り物が施された天井に点されたろうそくのシャンデリアが、壁に長い影を落としていた。ギャラリーへ続く廊下を曲がったとき、ローズは目を見張った。
 これまで、第二広間や主寝室へと続くこの豪華な回廊を通ったことはなかったのだ。

 その壁には、過去にメイフィールド領主館に暮らしたサーフォーク家先祖達の肖像画が、青銅の額に収まりずらりと並んでいた。
 大きな額の中から、鎧をつけた騎士や白い巻き毛のかつらを被った紳士達、ずっしりと重そうなビロードのドレスと宝石で飾った貴婦人達が静かに二人を見下ろしていた。
 ジェイムズの祖母、レディ・エリザベスの若き日の肖像画もあった。代々のサーフォーク家縁りの人々の絵姿を眺めながら、ローズは自分にはこの人達の仲間入りなど到底できそうにない、と心の中で呟いていた。


 一番端まで来た時、比較的新しい一対の肖像画に気付き、立ち止まった。黒髪の整った顔立ちに片眼鏡をとめたダンディな燕尾服の紳士と、褐色の髪に茶色の瞳、軽やかな夏のドレスを着た美しい貴婦人の絵。婦人の背景に描かれている湖はレイクサイドガーデンだ、とすぐに思い当たった。
 目も髪の色も違うが確かにマーガレットに似たその面差しを、ローズはじっと見つめた。

 この方達は……。
 問いかけるより先に腰に回された腕に力がこもり、少しかすれた声がした。

「……よくわかったね。これは先代のサーフォーク子爵と、レディ・サーフォーク、つまりわたしの両親だ。生前父が描かせたもので、母の絵はこれ一枚きりしかない。母はランス伯爵家の出でね。覚えている限り、とても気位が高い女性だった。だが、身体はそう強いたちではなかったな。遅くにマーガレットを産んだ後、結局お産の床から回復できなかったんだ……。母が亡くなったとき、父が声を出さずに泣いているのを初めて見た。そのあと、父はすべてにやる気を失い、生きる気力まで失ったように一気に老け込んでしまった。まるで後を追うように亡くなった時、父が母を愛していたんだとつくづく思い知ったんだ。それまで、よくわからなかった。二人ともあまり感情を表には出さない人達だったからね……」

 一対の肖像画を見ながら淡々と語られる話を、ローズは一言も聞き漏らすまいと熱心に耳を傾けていた。

 ふいに、彼が口を閉ざした。肖像画から夫に目を向けると、彼はローズをじっと見下ろしていた。ダークブルーの瞳に炎が揺らめくのを見て、はっとする。
「今なら、父の思いが理解できる……。だが、思えば下手な生き方だったな。度が過ぎた誇りや因習に縛られて、愛する人に心を開くことさえせずに……。わたしはその轍を踏まずに済んで、心から幸いだと思うよ」

 ジェイムズがローズの表情を覗き込もうとするように、顎をそっと持ち上げた。

 ダークブルーの瞳が澄んだ茶色の瞳をしっかり捉え、唇に貴族的な指が触れる。そのままほっそりした白い喉元まで辿っていくと、敏感なくぼみを手のひらでそっと包み込んだ。
 さらに、ゆっくりと露になっている肩から二の腕を撫で下ろしていくじらすような手の動きに、ローズは背筋の震えが止まらなくなるのを感じた。ジェイムズも少し震えているような気がする。

 見下ろす彼の目に、もはや隠しようもない表情が浮かんだ。ローズが息を吸い込むと、襟から覗く豊かな胸元が大きく波打った。
 それを目にした瞬間、すでに熱くなっていたジェイムズの身体の奥で何かがはじけ飛んだ。まるで野蛮人にでもなったように気持がはやり、積もり積もった思いのたけを今すぐ示してやりたくてたまらなくなる。

「部屋に行こう……。君の全てをもっとしっかり感じさせてほしい、今すぐに」

 彼女を抱き寄せ、かすれた声で囁くや、荒々しく唇を重ねていた。激しい口づけから解放されたとき、彼女はもう、夫の胸に顔を押し付けることしかできなかった。

 ふいに、ジェイムズが花嫁を抱き上げた。そしてそのまま主寝室に続く階段を大またに昇りはじめた。



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12/04/30
(余韻壊すかもしれない)かつての更新後書きはこちら…… → Blog