《子爵の恋人》  番外編 6
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 雲間から陽気な春の日差しが、霧の都ロンドンを今日も穏やかに包んでいた。
 それは貴族達の邸宅街に、薔薇の花が咲き始めた頃のこと……。


 当世の流行にならって、というよりはもっと現実的な理由から、サーフォーク家のアフタヌーンティタイムは午後4時から5時の間と決められていた。
 サロンの壁紙の色に合わせ白を基調にしたモダンな家具調度品。二段になったティタイム用特別テーブルには、その日もお茶の準備が完璧に整えられていた。
 繊細な細工のほどこされた銀のティーポットには最近インドから入ったばかりのセイロンと名づけられた茶葉。そしておそろいの銀スプーン、白地に青い葉模様入り陶磁器カップとソーサー、丸い大皿には、焼きたてのスコーンとラズベリーのパイが、料理人自慢のジャムとバターを添えて乗っている。
 上段テーブルに設置されたアルコールランプの炎の上では、銀のティーケトルが熱い湯気をあげて今にもポットに注がれんばかりになって、主人が来るのを待っていた。


「今度のロイヤルパレスの茶会に、ご招待をいただいたよ。夫人同伴で参席するように、とのお達しだ」

 書斎でその日届いた手紙に目を通していた子爵が、午後のお茶に下りてくるなり、サロンに着席していた女達にこう報告した。彼が手にしているのは、紛れもなく王家の紋章が入った大きく分厚い招待状だ。
 子爵の歳の離れた妹、今年18になり社交界デビューしたばかりのマーガレット・レイモンドは、これを聞くなり手を叩いてはしゃいだ声を上げた。
「まあ、お兄様! それって『女王陛下のお茶会』ね。貴族でも誰もがいただけるものじゃなくてよ。わたしにも見せてちょうだい!」
 言うなり兄の手からさっとそれを取り上げ、憧れの目でしげしげと眺めている。
 ジェイムズが軽く微笑しながら、少し誇らしげに頷いた。
「わたし達だって、そうたびたびご招待いただけるわけではないよ」
「とても名誉なお話じゃない! うらやましいわ、お義姉様。ロイヤルパレスにはわたしも一度是非行って見たいのよ。ああ、だけどこれで、一つお友達に自慢できる種が増えたわね。あの高慢ちきなフェリシア・チェスターフィールドの鼻っぱしらをへし折ってやれるわ」
「……今時のお嬢さん方の間で、いったい何が話題に上っているのかは知らないがね」
 子爵は眉をあげて、まだ幼さの残る妹をたしなめるように言った。
「むやみに社交の場で吹聴して回るのはまったく感心できないね。第一、お前自身がこういう場に参席するには、はやく一人前のレディになって、よい相手を見つけなればならないよ。そんなことを言っているようでは、まだまだだな」
「お兄様までそんなことをおっしゃるのね! そういうお話なら、もう耳にタコができるほど叔母様方から聞かされているわ。はっきり申し上げておきますが、わたしはそんなに簡単に片付くつもりはありませんから!」

 マーガレットは束ねず背中に流している長い巻き毛の黒髪をさっと指先で払い、少し挑戦的に膨れてみせた。
 ドレスの着付けも優雅な立ち居振る舞いもすっかり身につき、初々しい若いレディになっていたが、元来の勝気な性格まではなかなか変わらない。そんな妹を面白そうに眺めながら、彼もひとつ釘を刺す。

「お前がそういうことばかり言うから、ますます叔母上方の口がうるさくなるんだがね。以前にもそう忠告したはずだよ」
「それこそ『大きなお世話』ですわ!」

 ローズは微笑みながらティーポットから薫り高いお茶を暖めたカップに注ぎ、深いため息をついている夫に差し出した。
 仲の良いこの兄妹の軽口を聞いているのはとても楽しいが、今日ばかりは少し複雑な気分だった。
 思わず彼に困惑の目を向ける。もし本当なら、彼女にとって初めての王宮伺候になるからだ。


◇◆◇  ◇◆◇


 女王は最愛の御夫君を亡くされた悲しみに引きこもられ、それ以来公務にも必要最低限しか顔を出されないと聞いていた。
 現在、必要な政務は王子が代理することが多いのも聞いている。僭越ながら、女王の気持はローズにも深く共感できた。

 万事につけ派手なことを嫌った女王が、謁見に代わり『女王陛下のお茶会』と称される茶会を催されては、そこに謁見者を招待するという形をとっていたのは有名な話で、そこからロンドンのみならず、英国全体に、この午後のお茶の習慣が浸透したと言っても過言ではない。
 貴族であっても、招待される機会は数えるほどだという非常に名誉な席。だがローズは、とても緊張しそうだと思った。万が一にもお声をかけられたら、きちんとご挨拶できるかひどく心もとない気がする。

 おまけに今年は最新流行の大きく膨らんだ袖のドレスなども、ことさら作っていなかった。何を着ていけば一番相応しいのだろう。生来の性格から言えば、そういう分不相応に晴れやかな席は極力辞退したいところだが、一方、愛する夫に恥をかかせるくらいなら死んだほうがましとさえ思うローズにとっては、どうでもこなすしかない子爵夫人としての勤めだった。


「わたしなどが、ご一緒してもよろしいのでしょうか?」
 王子妃の優雅なサインを確認しその内容を読んだあと、ローズは自信のない表情を夫に向けた。
 その心配の元を察したように、彼はもちろんだ、と大きく頷いてみせる。
「君も、ジョン・ウォーターハウスという新進画家のことは知っているね? どうやら、今年の王立美術院の展示会で発表される絵が完成したらしい。殿下もことの他ご満足で、この茶会の席で先がけお披露目をなさるそうだよ。テニスンの詩に題材をとった名画だと、すでに評判も高いんだ。君も早く見たくないかい?」

 彼女にも造詣の深い芸術の話題を持ち出して、さりげなく励ましてくれる夫に、ローズの茶色の瞳が潤み、それから和んだ。
「ええ、でしたら、ぜひ拝見したいわ」
「別にわたし達だけというわけじゃない。他にも何十人も招待されているよ。何も心配することはないさ。新しいドレスを大至急注文しよう。明日午前中にでも仮縫いの針子を呼べばいい」
 感謝の目を輝かせた彼女に、彼はやさしく頷きかけた。


◇◆◇  ◇◆◇


 だが、ドレスの準備も整い、茶会の日がいよいよ目前に迫った三週間後のこと。
 突然の予期せぬ事態が、サーフォーク夫妻に襲いかかった……。


 二人の長男、今年4歳になるダニエルが、風邪がもとで肺炎に罹ったのだ。病に幼い命を散らせる子供が多い中、サーフォーク邸にかつてないほど緊迫した空気が垂れ込めた。

 ダニエルの寝室に、メイド達が音を立てぬよう気遣いながら出入りしていた。暖炉の火格子には春だというのに薪がはぜ、その上にかかった鉄製の大鍋から、絶えず熱い蒸気が上がっている。
 灰色の髪の子爵家主治医と熟練した看護婦とが、四柱式寝台の上で荒い呼吸を繰り返す男の子の上にかがみこんでいた。脈を取る医師の顔は酷く重々しい。
 看護婦の隣でローズは息子の手を握り締めながら、懸命に声をかけ続けていた。

「頑張って、お母様はここにいますよ、ダニエル」
「お母様……お母様」
 時々目を開き、苦しそうに息を喘がせては自分を探す幼い息子の小さな手を取り、ローズはその手に自分の生命を吹き込もうとするように、強く握り返していた。本当に、自分が代われるものならどんなにいいだろう。


 子爵も外出予定を一切取りやめ、深刻な表情で書斎に閉じこもっていた。時折、息子と妻の様子を見るため寝室に顔を出す。息子の容態はもちろん、片時も離れず付き添い続ける妻のことも心配でならなかった。
 息子の病状が悪化して以来、彼女がほとんど眠っていないのはわかっていた。運ばれてくる食事も喉を通らず、見かねた彼が無理やり寝室に連れて行っても、二、三時間うとうとすると、すぐにまた起き上がって息子の部屋にとって返してしまう。さほど強い身体でもないものを、彼女まで倒れたらと思うと、気が気ではない。


「部屋で少し休むんだ。聞かないなら命令するよ。このままでは君まで病気になってしまう。もうこんなに疲れ切っているじゃないか」

 医師もすでに手を尽くしている。あとは息子の運命と生命力にゆだねる以外、自分達がしてやれることは何もないのだ……。我が子の病床に付き添い続ける妻のやつれた顔を見つめながら、ジェイムズがそう強く言い聞かせたときだった。
 彼女がかっとしたように、夫を見上げ激しく食って掛かった。

「あなたって方は! 信じられないわ。あなた方貴族の中には、人の子の熱い血は流れていないんですの? こんなときにどうしてそんなふうに他人事のようにおっしゃれるの? まるで平然となさって! 運命ですって? そんなものに大切なこの子を連れて行かせたりしませんわ。わたしが目を離している隙に、坊やにもしものことがあれば、いったいどうなさるおつもりです?」

 思いもよらぬ妻の剣幕に、ジェイムズは目を見張り僅かにたじろいだ。途端に、ローズも口が過ぎたと気付いたように、はっと沈黙する。咄嗟に目を伏せたその仕草から、彼女の戸惑いがありありと伝わってくる。

 次の瞬間、周囲の目もはばからず、彼は腕を伸ばして力いっぱいローズを抱き締めていた。
 彼女のこんな表情を見るのはたまらない。だが多くの子供達が現に病で幼い命を散らしている現状なのだ。

 目を閉じたジェイムズのまぶたの裏に、ふいに意識の底に埋もれていた記憶、忘れ果てていた遠い過去に消えた小さな弟の姿がよみがえってきた。
 その弟の顔すら全くと言っていいほど覚えてはいなかった。どうやらごく幼いうちに流行り病で死んでしまい、その後人の口に名が上ることもなく忘れ去られたようだ。
 あの時やはりベッドの中で母を呼び続けていたか細い幼な児の、あまりにも古い思い出が、その一瞬脳裏に鮮明に浮かんだ。彼自身、部屋への立ち入りを厳しく禁じられていたため、たった一度しか様子を覗くこともできなかった。
 そしてあの時、看護人達の中に母親の姿はどこにも見えなかった……。

 この子は本当に幸せ者だ……。

 深刻な状況にも関わらず、彼は小さく微笑まずにいられなかった。
 やがて仕方がない、というようにひとつため息をつくと、子爵は大きなカウチをベッド脇に運ばせ、妻を抱き寄せたまま共に腰を下ろした。
 今夜が峠になるかもしれない……。

 ようやくダニエルに回復の兆しが見え、安堵のあまりローズが子爵の腕の中に倒れこむように意識を失ったのは、『女王陛下のお茶会』が開かれるちょうど二日前のことだった……。


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12/05/26  更新

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